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民俗学者の柳田国男が江戸時代までの庶民は苗字を持たなかったという、百姓無苗説を唱えたため、多くの学者はきっとそうなのだろうと信じてきましたが、近年の研究ではほぼ否定されつつあります。
江戸時代に一番多かった名前は、男性では「〜郎(ろう)」(太郎、次郎、三郎、六郎など)が全体の3〜4割を占めて圧倒的に多く、女性ではひらがな2文字の名前(「はる」「あき」「つる」「ちよ」など)が約9割を占めていたと言われています。次男に太郎とか、長男に次郎とは名付けないでしょうから、長男の太郎さんはおそらく莫大な人数がいたと思います。
苗字もなくただの「太郎」という人は江戸には捨てるほどいたと思うのですw
商屋などに奉公に出ると、本人の本名が何であっても店の呼び名に強制変更されて、丁稚なら末尾に「松」や「吉」、「蔵」の付く名に変えられ、手代に出世したら「七」や「平」、番頭になると「助」のように、まるで出世魚のように主人に名付けられました。
町人、農家の戸主なら〇右衛門、〇左衛門のような形式が多かったようです。
ここではそういう「名」の話ではなく、一般の農民や町人は苗字を持っていたかという話です。
結論から言いますと、大多数の庶民、とくに代々家を継いでいる庶民は苗字を持っていました。
「えっ、学校では江戸時代の庶民は苗字が無かったと習ったんだけど」という声が聞こえてきそうですが(自分もそう習いました)、
苗字が無かったのではなく、あっても名乗れなかったのです。
多くの人が隠し苗字だったり、その家の屋号だったり、私的な場や通称で呼び合う苗字を持っていたことが近年の研究で明らかになっています。
研究の第一人者は早稲田大学の洞(ほら)富雄教授で、洞教授の研究では
☆長野県東筑摩郡の寺院で天明3年(1783)と文化13年(1816)の寄進帳に署名している1000人以上の農民が全員、苗字と名前を記しているのを確認しています。
なんと1000/1000。全員苗字ありです。
☆文政13年(1830)に作成された長野県南安曇郡の「富士講中名簿」では2345人の農民のうち、無苗の者はたったの16人だけであったという結果。
洞富雄教授の研究が発表されると多くの研究者が同様の例を次々と発見して、現在では柳田国男の無苗説は否定され、有苗説が有力となっています。
とくに天領(幕府領)の農民に有苗の者が多かったようです。
まとめると江戸時代の庶民は苗字を持っていなかったのではなく、宗門人別帳(現在の戸籍)や公文書への署名など、公然と名乗ることができなかったのです。それができた庶民は苗字御免、苗字帯刀御免を許された人々だけでした。
神社に玉垣などを奉納した人が玉垣に氏名を彫られたりするのは私的な行為として許されていました。
画像は姫路の神社の玉垣ですが、北前船の商人たちが航海の安全を祈願して神社に奉納しています。奥羽地方の商人「米竹清右衛門」の名前がみられます。
※九所御霊天神社玉垣 元治元年(1864年)築造
ただし、被差別民とされた人々や私的にも苗字を持たなかった庶民も存在していました。

