… … …(記事全文3,573文字)教科書には間違ったことは書かれていないと信じたいものですが、とりわけ社会科の歴史教科書では「かつてはそう考えられていたが現在は否定されている」ような掲載内容がしばしばあります。
しかし一度検定済み教科書に掲載した内容を「あれは間違いでした」とか「お詫びと訂正」などと書くわけにいかず、次回検定分から削除という傲慢な方法で、さりげなくアップデートしていくやり方を取っているようです。
一番有名なものとしては鎌倉幕府の成立年。1192年として習って、「いい国作ろう鎌倉幕府」などと覚えた人もいるかも知れませんが、源頼朝が征夷大将軍となった1192年説は現在では否定されており、壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼし、朝廷から頼朝へ与えられた諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可した文治の勅許を得た1185年が鎌倉幕府の成立年とされています。
源頼朝の肖像画も、近年の研究で別人説が浮上しています。
近年の研究で神護寺の頼朝像は室町期に足利氏が神護寺の奉納した足利尊氏、直義像の内の、足利直義である可能性が高いとされ論争になっています。
これです(^_^;) 昭和時代に源頼朝の肖像画として教科書で見た記憶がある方も多いのでは。
様式が鎌倉時代初期には他に例の無い、室町期に多い大判絹地に描かれた像で、決め手は足利直義直筆による神護寺に奉納したことを記した書(直義願文)が発見されたことです。
※現代語訳
京都の神護寺は、かつて弘法大師(空海)が開基された霊場であり、文覚上人によって再興された由緒あるお寺です。わが足利家(当家)は、この神護寺と特に深い因縁(縁)があり、代々深く帰依してまいりました。そこでこの度、『阿含経(あごんきょう)』一軸とともに、征夷大将軍(兄・足利尊氏)と私(直義)の肖像画(影像)を神護寺に安置(奉納)いたします。どうかこの場所で素晴らしい仏縁を結び、この先も(足利の政権が)揺らぐことなく、現世と来世における私たちの願いが、ことごとく円満に成就しますように。
康永四年(1345年)四月二十三日
左兵衛督源朝臣(足利直義) 記之(花押)
神護寺三像は国宝なのにどうするんでしょうね(^_^;)
「士農工商」という言葉を歴史の授業で習った人がおられるのではと思います。
江戸時代の身分制度を表す歴史用語だったようですが、そんな身分区分け制度は存在していませんでした。
「士農工商」の言葉自体は漢語で、その初出は相当古く、紀元前6世紀です。
《春秋穀梁傳·成公元年》按「士商農工」劃分:「古者有四民:有士民,有商民,有農民,有工民。
古(いにしえ)者(は)四民(しみん)有り。士民(しみん)有り、商民(しょうみん)有り、農民(のうみん)有り、工民(こうみん)有り。
漢語でいう「士農工商」(四民)というのは身分のことではなく、国中のすべての人々という意味の儒学的表現で、漢語でいう「士」というのは武士のことではなく学者、知識人のことです。
江戸時代には「士農工商」の単語を庶民は知ることもなく、一般に知られるようになったのは明治維新後の国定教科書だと言われています。
士農工商の「士」を学者から武士にすり替えた明治時代の教科書執筆者の真意はわかりませんが、旧幕時代は四民平等の明治の御代とは違い、武士本位の身分差別が厳しい封建的なひどい社会だったと教えたかったのでしょうね。
ネット上の記述によくある「士農工商という身分制度は無かった」という表現は間違いではないと筆者は考えるのですが、「だから身分移動は自由であった」というのは早計で、そんな自由な生き方は例外的にあった(武家の養子となった、御家人株を買って商人が武士になったなど)ぐらいで、農民が離農して町人になる自由などありませんでした(農民も町人も人別帳で管理されていた)し、町人の娘が武家に嫁入りすることも許されませんでした。
武士は武士の区分の中で厳格な身分区別があり、江戸城の伺候席は部屋だけではなく、畳何枚目、畳何目(縫い目)まで指定されていました。
将軍との対面(独礼)の際は、伊達家は従四位下左近衛少将なので大広間下段間の後ろから2枚目の畳、毛利家は従四位下侍従なので一番後ろの畳などと厳格に決まっていました。


