… … …(記事全文3,803文字)『ブロックに過剰反応する心理とは? 他者からの承認より“達成感”を軸に生きるという選択』
先日、ライブ放送で「ブロックに過剰反応する心理とは?」という話をしました。
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『ブロックに過剰反応する心理とは? 他者からの承認より“達成感”を軸に生きるという選択』SNSで「ブロックされた」と傷つく人。なぜそこまで反応するのか?承認欲求と支配欲、そして“自分軸”で生きるという選択肢についてお話しします。
📺 https://www.youtube.com/watch?v=iKvnlNpfzyc&t=25s
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「ブロックに過剰反応する心理」を読み解くと
私はSNSを、一般社会とは違う「海」だと考えています。
逆に、一般社会とはある一定の役割を求められる場所──家族や職場の構成員、地域の人、サークルの仲間──といったすでに固定された役割をずっと求められる場所です。
一般社会では、その役割がある自分の「居場所」です。だから、そこが存在することが生きている自分のステータスであり、その居場所を守るため、固定された役割を頑張らなくてはならない。それは重要なことですが、息苦しく感じることもあります。
一方で、SNSは未開拓の見知らぬ人たちがたくさんいる場所──いわば「大海」です。近くには見慣れた小さなお魚もいるでしょうが、マグロもマンボウもエイもいる。イワシの大群に会えるかもしれないし、タコやカニ、深海魚にも出会えるかもしれない。そんなところがSNSです。
もちろん、クラゲの毒の触手で刺されたり、集団行動しているサメに襲われたりするリスクもありますが、素晴らしい出会いもある。日常とは違う世界が広がるのがSNSです。
そこにはメリットとデメリットがあり、一般社会とは違う構造になっています。だからSNSのプラットフォームには法的・制度的な「利用者の権利」が定められています。その一つが、ブロックとミュート機能です。
【利用者の権利と制度的背景】
🔹 A. プラットフォーム上の機能利用は「利用者の権利」Twitter(X)やFacebook等のSNSが「ブロック」「ミュート」という機能を実装しているのは、利用者の安全・心理的衛生の確保のためです。👉 つまり、誰をブロックするかは発信者の自由であり、選択できる設計になっています。
🔹 B. 憲法・法的義務は「国家」や「公的機関」に課されています。「表現の自由」「知る権利」などは、国民が国家権力に対して持つ権利であり、私人(個人)同士に対して無制限に要求できるものではありません。👉 ジャーナリストや公人、タレント等の発信者に対して「応答しろ」「ブロックするな」と迫ることは、私人への過剰な介入です。
たとえば、SNSでは相手が誰だかわかりません。話している相手が中学生かもしれないし、心が弱っている人かもしれません。一般社会のような「顔の見える関係」とは異なり、相手の状況がわからない中で、強い言葉で責め立てる人もいます。
SNSでは、問題のある投稿者について「ミュート」または「ブロックしますか?」と確認してくれる設計がされています。これは、誹謗中傷や粘着的な被害を避けるための設計です。
また、問題行動がなくても、「話が合わない」「つまらない」「忙しいから会話したくない」など、心理的衛生を保つ目的でブロック・ミュートを使う自由も当然認められています。
ブロックやミュートを、利用者自身の都合で自由に使うことが、SNSの基本的な利用ルールです。
【なぜ「ブロック=悪」と考える人が存在するのか?(誤解の構造)】
SNS上では、公人のアカウントに「俺のコメントに返事をしろ!」と書き込むような傍若無人な投稿も散見されます。
でも、こうした行動は、法的にも間違っています。
公人が全方向に説明責任を負うというのは、誤解された“幻想”です。仮にそれが正しければ、公人は一日中SNS上で応答を続けなければならず、国会にも出られなくなります(笑)
説明責任は、「職務上」の範囲において負うものであって、SNS上での無差別応答義務などは存在しません。
そのため、公人等があなたの質問に答えなかったとしても、それは「当然あり得ること」であって、失望する必要も怒る必要もありません。