… … …(記事全文3,542文字)近年、オーストラリアやイギリスをはじめとして、16歳未満のSNS利用を制限する動きが広がっている。その理由として挙げられるのは、SNS依存、メンタルヘルスの悪化、ネットいじめ、そして未成年者への性的接近、いわゆるオンライン・グルーミングなどだ。
確かに、SNSを通じて見知らぬ大人が未成年者へ接触し、性的搾取や犯罪へと発展するケースは現実に存在する。しかし、もし目的がグルーミング対策だけなのであれば、16歳未満の利用そのものを一律に禁止する必要があるのだろうか。
例えば、DM機能だけを禁止する。あるいは、未成年者のアカウントを検索結果から除外する、16歳以下は閲覧機能だけにするなど、技術的には様々なアプローチが考えられるはずだ。実際、こうした措置だけでも被害の多くは防げる。
ところが規制派は、それだけでは不十分だと主張する。
彼らが問題視しているのは、単なる犯罪だけではない。SNS依存、承認欲求の肥大化、過激な情報への接触、自傷行為や自殺関連コンテンツへの誘導など、SNSという環境そのものが子供の成長環境を変えてしまったと考えているのである。しかし、ここで一つの疑問が浮かぶ。
SNSが登場する以前、子供たちは何をしていたのだろうか。
テレビを見ていた。漫画を読んでいた。ゲームをしていた。
友達と遊ぶ子もいたが、一人で本や漫画の世界に没頭する子も珍しくなかった。もしSNSを禁止したとしても、その子供たちは単にNetflixやYouTube、あるいは別のデジタル空間へ移動するだけではないのか。規制派は「子供時代を取り戻そう」と訴える。
しかし、その言葉には、普遍的な「理想的な子供時代」がすでに定義されているという傲慢な前提がある。
だが、本当にそうだろうか。
昭和の子供時代と江戸時代の子供時代は違う。
平成の子供時代と令和の子供時代も違う。そもそも、子供時代とは必ず外で遊ばなければならないものなのか。
そうした生活が「子供らしくない」と言えるのだろうか。日本の漫画文化を振り返れば、むしろ逆である。
多くの少年漫画は、友情、努力、勝利という価値観を描いてきた。
そこには生まれながらの英雄ではなく、平凡な少年が仲間と共に成長し、自らを鍛え、困難を乗り越える物語がある。それらは単なる娯楽ではない。
人生の教科書として、多くの子供たちに影響を与えてきた。もちろん、人間関係は現実の人間との接触からしか学べない部分もある。
しかし、その機会は学校という場で十分に存在する。学校から帰った後まで、外で遊ぶことを強制することが、本当に「子供時代らしさ」なのだろうか。そう考えると、SNS規制の本質は依存症対策でも、グルーミング対策でもないように思えてくる。私は、この議論の本当の争点は全く別の場所にあると考えている。
ここから先、SNS規制論争の本質について考える。
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