━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 板垣英憲(いたがきえいけん)情報局 ~マスコミに出ない政治経済の裏話~ 2011年1月16日 ◆─── - - - - - - - - ───◆ 世界の政治・軍事・経済・金融を支配するパワーエリートの動きやその底流で 行われている様々な仕掛けなどを中心に、重要情報(特ダネ)をキャッチして速 報する。板垣英憲の過去著書も連載します。 政治評論家 板垣英憲 ◆─── - - - - - - - - ───◆ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 『平成動乱 小沢一郎の野望』1993年9月25日刊 第1章 小沢一郎が描く日本のリーダー像 第10節 なぜ権力闘争を活性化するのか―権力は戦いとるものだ─────────────────────────────────── 第1章 小沢一郎が描く日本のリーダー像 第10節 なぜ権力闘争を活性化するのか 権力は戦いとるものだ 日本の政治が金権腐敗の構造になってしまったのは、政治家たちが権力闘争を放棄したのが、大きな原因のひとつといわれている。権力は戦いとるものである。 総理総裁(首相)の選び方さえ、このごろは以前と比べてすっかりさまがわりした。むかしはどうだったかといえば、たとえば岸首相は、昭和三十一年十二月十四日の自民党大全の決戦投票で、石橋湛山に258対251で敗れた。だが、翌三十二年二月二十三日に石橋首相が病気のため内閣総辞職したあとを受けて、同月二十五日に首相に就任している。 官僚派の池田首相は、昭和三十五年七月十四日の自民党大会での決戦田中派秘書会のメンバーがひそかに総動員され、都内をはじめ各地にオルグとして派遣された。「大平と書くように」と坪びかけたのである。 この作戦を陰で指揮したのが田中元首相であり、竹下に協力して指揮官役を果たしたのが後藤田正晴だった。「人民の海へ」という左翼まがいの作戦で、目立ちにくい東京の下町に前線基地を構えて、多数派工作を行った。 敗北した福田元首相はこの作戦をあとで知り、地団太を踏んだ。政権に恋々としつづけて成仏しない福田元首相の怨念を浴び、「四十日抗争」を経て、大平元首相は心労がたたって、心筋こうそくで死んでしまった。 中曾根首相は、昭和五十七年十一月二十四日の自民党総裁決定選挙で当選した。二位河本敏夫、三位安倍晋太郎、四位中川一郎の順だった。 竹下首相は、師匠である田中元首相に「まだ十年早い」とスリッパで頬を叩かれながら我慢の子を通した末に、下克上、田中派から独立して最大派閥を形成した。 「親殺し」の汚名をはねのけ、その数の力をバックにして、幹事長の立場から中曾根政権を助けて貢献した。それが結局、中曾根から指名を受けて総裁に就任を果たすことにつながったのである。… … …(記事全文1,444文字)
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