… … …(記事全文9,420文字)「酒池肉林」と聞くと、多くの人は暴君の贅沢三昧を思い浮かべます。けれど私は、この物語の本質は贅沢や残虐さそのものではないと思っています。なぜ人は暴走するのか。なぜ権力は腐敗するのか。そうした視点から妲己と紂王の物語を読み解いていくと、その背後に「責任を失った権力」と「出口設計を失った社会」という、現代にも通じる普遍的な問題が見えてきます。では日本は、こうした問題に対してどのような答えを出してきたのか。酒池肉林の物語を入口に、日本文明が育んできた知恵について考えてみたいと思います。
************はじめに 「酒池肉林」はなぜ語り継がれるのか
「酒池肉林」という言葉をご存知でしょうか。
池に酒を満たし、木々には肉を吊るし、人々が欲望のままに遊び暮らす。
現代でも「贅沢三昧」や「享楽の限りを尽くす」という意味で使われる言葉ですが、
語源となったのは、
紀元前十一世紀頃の殷王朝末期の紂王(ちゅうおう)と、その寵姫であった妲己(だっき)の物語です。
そこには、池に酒を満たし、肉を林のように吊るしたという話だけでなく、
奴隷同士を戦わせたり、残虐な刑罰を見世物にしたりする、目を背けたくなるような記述が並びます。
現代の感覚からすれば、「本当にそんなことがあったのだろうか」と疑いたくなる話です。
実際、この種の記録には後世の脚色も少なくないでしょう。
けれど私は、この話が史実かどうか以上に、
どうして二千年以上ものあいだ、この物語が語り継がれてきたのかに興味があります。
それは単に「昔の暴君はひどかった」という話を伝えるためだったのでしょうか。
私にはそうは思えません。
そこに、人間社会が何度も繰り返してきた、普遍的な問題があるからだと思います。
それは、「権力はなぜ腐敗するのか」という問題ではありません。
もっと正確に言うなら、
「人は、責任を失ったとき、どこまで暴走するのか」
という問いです。
私は、この問題の本質は権力そのものにあるのではなく、「出口設計」にあると思っています。
人は、どこへ向かうのかが見えなくなると、欲望そのものが目的になってしまうからです。
さらに、権力に責任が伴わなくなると、その欲望は際限なく膨らみます。
その意味で、酒池肉林は、単なる古代の逸話ではないと思います。
それは、出口設計を失った権力が、最後にどこへ行き着くのかを示した物語といえるのではないか。
そのように思えるのです。
そこで今回は、妲己と紂王の物語を入口として、「責任なき権力」と「出口設計」という視点から、歴史の本質について考えてみたいと思います。

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