… … …(記事全文3,568文字)今では信じられないような話ですが戦前の日本(昭和13年まで)では請願巡査と呼ばれる制度があり、地方公共団体や各種施設に警察官を常駐してもらうための個人の請願(願い出)が可能でした。
派遣された巡査の給料や、派出所・駐在所の設置・維持費用は、請願者がすべて負担する仕組みで、主に大規模な炭鉱、鉱山、居留地、富豪の邸宅周辺などの治安維持や、ストライキ・暴動の鎮圧・警戒を目的として活用されました。
明治14年(1881年)4月の内務省通達によって正式に発足しましたが、私人による警察官派出所の設置が可能になった背景やその後の話について深堀りしてみたいと思います。
明治新政府は、富国強兵や殖産興業を推し進めました。その一環として、全国で炭鉱・鉱山の開発、鉄道や道路の建設、大規模な工場の設立が急速に進みます。
- その結果、全国から一獲千金を狙う人々や粗暴な労働者が集まり、現場での賭博、喧嘩、犯罪が多発しました。さらに明治初期の労働環境は非常に劣悪だったため、労働者による暴動やストライキのリスクが常にありました。
- 請願巡査制度がスタートした明治14年(1881年)当時の日本の警察規模は、現代と比べると驚くほど小さく、マンパワーが圧倒的に不足していました。警察官の総数は、およそ2万数千人程度だったとされています。
- 現在の日本の警察官は約28万人 ですから、10分の1以下の人数で、全国の治安をカバーしなければならないという厳しい状況でした。
- ただ、人材には困りませんでした。大政奉還で召し放ちになった全国の下級武士や幕府の御家人が多くいたからで、彼らは創設された陸海軍や各府県の警察官に採用されていきました。
- 幕府の役人の多くは江戸(東京)在住で、明治新政府の最優先事項は「天皇や政府高官の守護」と「首都の治安」だったため、1870年代の東京には、全国の警察官の3割〜5割近く(約6,000〜9,000人)が配置されていました。
- 逆に東京以外の地域の警察行政は手薄となるという事態となったのです。
- むしろ問題に直面したのは財政難でした。
- ★政府が雇った外国技術者の超高額賃金
- ★鉄道、通信、道路などのインフラ整備
- ★近代的な軍隊(陸海軍)の創設
- ★官営工場の建設
- 明治初期の国家予算の約3〜4割は、全国にいる旧武士(士族)への給料(秩禄)支払いに消えていました。この給料をカットして「武士のリストラ」を完了させる(秩禄処分)だけでも、莫大な公債の山となり、政府の首を絞めました。
- そこに西南戦争(1877年)の出費がとどめを刺します。西南戦争の戦費は国家予算一年分といわれています。
- 政府には予算がなく、それでも警察力は整備しなければならないという矛盾からスタートしたのが、民間に出費させて警察力を整備する請願巡査制度でした。
- これは堺県(現在は大阪府の一部)の請願巡査に関する布達ですが、これまでは請願者の経費負担は70円で残りは県税から負担していましたが今後は請願巡査の年俸負担額として二等巡査で106円を請願者負担額とする旨が書かれています。この他に警察官の駐在場所(建物)、警察官の制服代、諸経費なども請願者の負担となりました。
- 小説家 太宰治の父、津島源右衛門は青森県の大富豪でしたが、津島源右衛門も自邸前に請願巡査を常駐させていました。
何でも記録に残したがる日本政府ですが、なぜか請願巡査に関しては、その全体規模などの記録がないのです。
本来、役所が配置するべき警察官について民間を頼ってしまったから恰好が悪かったからなのかも知れません(^_^;)
炭鉱や鉱山で働く工夫の治安維持のために炭鉱や鉱山を経営する会社が費用負担し、開発が始まった沖大東島や南大東島など会社が所有する離島などに配置され、富豪や地主などが自宅を警備させる目的で私費で派出所を作らせたため、民間が経費負担したこの制度はここまで読まれた多くの方が予想しているであろう種々の問題が発生し、以後、大変な問題が噴出することになります。



