… … …(記事全文4,777文字)奈良時代というと、多くの人は遣唐使や正倉院、大仏開眼供養といった言葉を思い浮かべるだろう。しかし、この時代の日本が向き合っていたのは、単なる「唐(中国)」という一国ではなかった。シルクロードの東の終着点として、日本は長安を経由し、遠くペルシャや中央アジアの文物、そして「人」そのものを受け入れていたのである。
話の起点は、2016年に奈良の平城宮跡から出土した一枚の木簡である。
そこに記されていたのは、天平神護元年(765年)の日付とともに書かれた「員外大属 破斯清道」という人物の名だった。大学寮で宿直勤務についていたこの官吏の名にある「破斯」は、中国語で「波斯」、つまりペルシャを指す言葉と同音同義であり、彼がペルシャ系の出自を持つ人物であったことを示している。出土文字資料として日本国内でペルシャ人の存在が確認された、最初の事例だった。
この木簡は、正史の記述とも見事に符合する。『続日本紀』の天平8年(736年)の記事には、遣唐副使の大伴古麻呂らが唐から帰国した際、唐人三人とともに一人のペルシャ人を連れて帰り、聖武天皇に謁見させたという記録がある。
この人物は「李密翳(りみつえい)」と記されている。破斯清道は、この李密翳その人か、あるいは彼に連なる家族や従者ではないかと考えられている。数学や天文学、語学といった高度な専門知識を買われ、朝廷の特別職として仕えていたのだろう。
https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AAICJ590021
人だけではない。正倉院に伝わる宝物には、ペルシャそのものの技術と意匠が刻まれている。透明感のあるガラス器「白瑠璃碗」は、成分分析により6世紀から7世紀のササン朝ペルシャで製作された本物であることが判明している。
Imperial Agency - TO-EI-SHU-KO, 1st edition, 3rd vol. Tokyo, Japan, edited by Imperial Agency published by Shinbi-Shoin, ACE1908-01-28, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=175699134による
正倉院の宝物から空海の密教まで。
天平文化に溶け込んだペルシャとシルクロードの濃密な痕跡を紐解く。
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