… … …(記事全文3,714文字)たまには歴史モノを。
江戸は「火事と喧嘩は江戸の華」と称されるほど、火災が日常と隣り合わせの都市であった。木造密集地帯に数十万の人口が暮らすこの街では、ひとたび出火すれば瞬く間に炎が広がり、町全体を焼き尽くすことも珍しくなかった。一六五七年の明暦の大火は江戸の大半を灰燼に帰し、幕府に消防体制の抜本的な整備を迫った。これを機に生まれたのが、組織化された火消し集団である。
明暦の大火を描いた田代幸春画『江戸火事図巻』(文化11年/1814年)
田代幸春 - 戸火事図巻(江戸東京博物館 Edo-Tokyo Museum :収蔵品), パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10490659による
アルノルドス・モンタヌスの『東インド会社遣日使節紀行』(1669年)に描かれた明暦の大火
幕府は旗本や御家人を中心とした「定火消(じょうびけし)」を創設し、その後、享保の改革において八代将軍徳川吉宗のもと、町人で組織された「町火消」が整備された。「いろは四十八組」に編成された町火消は、江戸の各町に根を張り、以後百余年にわたって都市の守護者として機能し続けた。
しかし、ここで一つの疑問が生じる。
彼らの多くは、普段は建設現場で働く「鳶(とび)」の男たちである。
火事が起きれば生業を放り出して現場へ駆けたが、そこに幕府からの莫大な報酬などない。命を落としても十分な遺族年金が出るわけでもなく、きらびやかな刺子の半纏や道具は、自分たちや地域コミュニティの持ち出し、つまり「自腹」であった。一文の得にもならないどころか、命を落とすリスク、明日の稼ぎを失うリスクを背負いながら、なぜ彼らは競うようにして猛火の渦へと飛び込んでいったのか。そこには、現代人が忘れてしまった「粋(いき)」という名の、冷徹なまでの地域リアリズムと、独自の死生観があった。
一文の得もない火事場へ男たちが走った理由とは?
この先は、江戸の「粋」のリアリズムに迫ります。
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