ウェブで読む:https://foomii.com/00263/2022062921300396296 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ASKA サイバニック研究所 ●「白村江【ハクスキノエ】の戦い」の直前に現れた巨大な鬼の正体? 2022年06月29日 ─────────────────────────────────── 中国の魏・呉・蜀【ぎ・ご・しょく】の三國時代の「魏」は『魏志倭人伝』とあるように、日本を‶付き従う〟意味の「倭」と呼んだ。 その後、国号を「倭」から「和」に変え、更に偉大な意味の「大」を付けて「大和」を「ヤ・ゥマト/ヤハウェの民」の当て字とした。 徳川幕府の国学者の本居宣長【もとおりのりなが】は、第38代天智天皇の時代に「日本」の国号が使われたし、この頃、太陽が昇る「日本」と書いて〝ひのもと〟と読んだとする。 が、その元は、飛鳥時代の推古天皇15年(607年)、厩戸【うまやど】の聖徳太子が「隋」へ「遣隋使」に遣わした小野妹子の親書、「日出處天子致書日沒處天子無恙云云(日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」の〝日出ずる処〟から来たものだろう。 尚、この時の記録は『隋書』「東夷傳」<倭国伝>に、妹子が通訳として鞍作福利【くらつくりのふくり】を従え「大業三年(607)、其ノ王多利思比孤【タリシヒコ】使ヲ遣シテ朝貢ス」とあるように「故ニ遣シテ朝拝セシメ、兼ネテ沙門【しゃもん】数十人、来ッテ仏法ヲ学ブ」とあり、妹子は学問僧数十人を伴っていたことが分かる。… … …(記事全文12,081文字)
購読するとすべてのコメントが読み放題!
購読申込はこちら
購読中の方は、こちらからログイン