ウェブで読む:https://foomii.com/00263/20230610022824110117 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ASKA サイバニック研究所 ●『小倉百人一首』がトンデモない預言を仕組んだ?(後編) 2023年06月09日 ─────────────────────────────────── 京都を監視していた鎌倉幕府の「六波羅(探題)」は、元弘3年:正慶2年(1333年)5月(旧暦)、丹波に進軍していた幕府方の足利高氏が、丹波篠村で「隠岐」を脱出した後醍醐天皇の出来事を知り、反鎌倉を宣言して京都の「六波羅」を攻撃、5月7日には南北二カ所の両探題は六波羅を脱出し、鎌倉の出先監視機関だった「六波羅探題」は壊滅した その後、後醍醐天皇が「平安京」に帰還したのが、元弘3年6月5日(新暦:1333年7月17日)だが、その前に、〝勝軍破敵〟の「呪詛」を京都の要で行った 1333年5月18日(旧暦)、後醍醐天皇は、陰陽師が平安京建設の北位置に定めた「船岡山」に入山、待っていた陰陽師らと共に頂上を目指した。 頂上には神聖な「磐座【いわくら】」があり、後醍醐天皇は「磐座」を前に難敵を滅ぼすの儀式を陰陽師らと共に行った。 これは「神聖政治」を貶めた「鎌倉幕府」を打ち倒す儀式で、結果として、入山した5月18日(旧暦)に新田義貞が大軍で鎌倉に攻め入り、5月22日(旧暦)、150年続いた鎌倉幕府は滅亡する。… … …(記事全文9,756文字)
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