ウェブで読む:https://foomii.com/00263/20230607235725110027 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ASKA サイバニック研究所 ●『小倉百人一首』がトンデモない預言を仕組んでいた?(中編) 2023年06月07日 ─────────────────────────────────── 日本古来の「神聖政治」に戻そうとした後鳥羽上皇が捕らえられ「隠岐」に配流【はいる】された後、同じ目的で乱を起こした南朝の後醍醐天皇も「隠岐」に流された。 しかし、1333年の閏【うるう】2月24日(新暦:3月18日)、忠臣だった千種忠顕【ちぐさただあき】や島民らの助けで、深夜、島前【どうぜん】の御所を抜け出し「知夫里【ちぶり】島」から脱出することに成功する。 その後、船は日本海を渡り伯耆国【ほうきのくに】の名和【なわ】の港(鳥取県西伯郡名和町)に到着、待っていた名和長年【なわながとし】が後醍醐天皇を担いで砂浜に降ろし、「船上山【ふなのうえやま】」(鳥取県東伯郡琴浦町)の頂上まで案内した。 和歌の達人でカバリストだった藤原定家の末裔が、藤原北家御子左流嫡流の「冷泉家【れいぜいけ】」(京都市上京区)で、筆者がその一族の女性と都内で会った折、「冷泉家の一部は明治天皇に付き従い東京に移り、姓名も2度ばかり変えております」と話してくれた。 考えてみれば、明治以降の皇族の歌詠み会で知られる「歌御会」「歌会始」は、準備を含め「冷泉家」の一族が東京にいなければ成り立たない筈で、明治に廃された「陰陽寮」も同様、表向き下野【げや】した陰陽師(漢波羅)の多くは、「宮城(皇居)」かその周辺に移り住んだ筈である。… … …(記事全文8,692文字)
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