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天木直人のメールマガジン ― 反骨の元外交官が世界と日本の真実をリアルタイム解説

天木直人(元外交官・作家)

天木直人

短編第七作の紹介
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□■□■【反骨の元外交官が世界と日本の真実をリアルタイム解説】 ■□■ □■ 天木直人のメールマガジン2014年7月12日号外 ■   ==============================================================  短編第七作の紹介  ============================================================  これが入院中に書いた短編集の最後の一作です。  安倍政権の下で行われている政治のアンチテーゼを物語で書いたつもりでしたが、いま7編を読み返して見ると、これらをどう活用できるか、自分でもわからなくなりました。  しかし、入院生活中は、毎日の配信のかたわら、何か物語で安倍首相の日本に欠けているものを書きたいという一心で、ステロイドで寝られない夜中に、必死で書いていた自分を思い出します。     青く白い月夜  青森県と秋田県の県境から秋田県のほうに、20キロ程入ったところに、数百人ほどの住民が住んでいる小さな集落があった。  その住民たちは、主に稲作で生計をたてていたが、それだけでは生活が出来ないので、男も女も農閑期には、隣村や、県を越えて遠く出稼ぎに行くので、いきおい、収穫の秋が過ぎると、集落は年寄りと子供たちだけになって、人口はさらに少なくなる。  その集落には、地主で、農業のかたわら、昔から薬問屋を受け継いできた大黒屋という老舗があって、そこのあるじの五右衛門が事実上、その集落の長となってきた。  そんな集落にも、小学校と中学校をかねた学校がひとつあり、大黒屋の計らいで保育園も併設されていたので、一頃は集落のこどもたちはみなそこへ通い、お互いを知り、育つという緊密さがあった。  しかし、その学校も、やがて集落人口が減り続け、ついに全体の生徒数が10名を切るようになり、ここ一両年で廃校の憂き目にあうことになっていた。  田原絹枝がその学校へ小学六年生として通っていたのはそんな時であった。  絹枝の両親は貧しさに負けて、ある日突然子供たちを置き去りにしたまま夜逃げし、兄の佐吉と絹枝は、近所の農家の世話になって育てられた。  絹枝には、同じ学校に通っていた幼なじみの、兄と同級生の中学三年の普三がいた。  いずれ絹枝は、こどもごころに、大人になれば晋三と一緒になって平凡な暮らしをするつもりでいた。  まわりの子供たちもそれが当然のように見ていた。  絹枝は晋三と、貧しくても平凡な暮らしができるはずだった。  ところが、絹枝のもって生まれた美しさがその運命を狂わせた。  美しさゆえにその人生は悲しいものになることが、この世にはままある。  もちろん私にはその理由はわからない。  美人にうまれれば、普通なら、いいことばかりのような気がするが、それでは不公平だと、神様は、時としてきまぐれに、不幸な星の下にうまれる美人をおつくりになるのだろうか。    大黒屋の一人息子である長治もまた、その学校に通っていて、兄の佐吉や普三と同い年であった。  しかし違うところがあった。  佐吉や普三は貧しい家の子供であるが、長治はその集落の長のあと継ぎだった。  長治が、あの娘が欲しい、と言い出したら、どうだろう。  答えは決まっている。  本人同士が駆け落ちしてその集落を離れない限り、絹枝は大黒屋が独り占めすることになるのだ。  それはひどいと、まわりの者は内心思っても、かわいそうだがしかたがない、いや、そのほうが絹ちゃんも幸せになれる、などと陰でヒソヒソと噂さ話しをしておしまいだ。  絹枝は年を追って美しくなっていった。  小学生のころまでは、可愛い女の子で片づけられたが、中学にはいるころから、男子学生の垂涎の的になり、集落中の大人の男がほしがる程の美貌になっていた。  そして18歳を過ぎる頃には、絹枝は大人の美人に変身していた。  たとえそのような強引な結婚でも、その後がうまくいけば問題はない。  むしろ好きあって駆け落ちし、世間から逃げるような生活が、果たしてよかったのか、という場合もある。  そして、絹枝にはもう一つ、普三とは決して添えない理由があった。  絹枝を「横取り」した長治は、ぼんくらで、たよりはないが、悪い男ではなかった。    およそ暴力などふることのない、おとなしい男だった。  やがて長女、めぐ、がうまれた。  それからというものは、めぐを中心に大黒屋もまわりはじめ、絹枝の存在感も大きくなっていった。  絹枝は長治にみそめられてよかったと皆が思った。  しかし、幸せの絶頂にある時、あるいは、幸せに向かおうとしている時に、不幸は訪れる。  しかも「その時」は突然やってくる。  絹枝の場合は、それが、めぐの突然の病死であった。  そして、めぐのあとに子宝に恵まれなかったことが、事態をさらに悪くした。  まず最初に変調を来したのは、五右衛門の妻、すなわち絹枝の姑であるお富であった。  一人息子の長治を溺愛していたお富は、もともと絹枝との結婚には反対であった。  もっといいとろから嫁をもらいたかったし、自分の手で探してやれる、探してやろうと考えていた。  だから絹枝が嫁いできたからというもの、家風を教えるという名目で意地悪を繰り返した。  しかし、それもめぐの誕生で和らいでいた。  めぐの突然の死のショックでお富の意地悪が蘇り、より悪質になった。めぐを死なせたのは絹枝の不注意だ、子供ができないのは長治への愛情が足りないのだ、と責め始めた。  それだけならまだいい。  変な宗教に凝りだして絹枝に強要するようになった。  次に変調を来したのが夫の長治であった。  もともとマザコンの長治であったが、結婚し、めぐが生まれたころは絹枝とお富の仲をうまく取り持ち、どちらかと言えば絹枝の味方をしてくれることが多かったが、めぐが死んでからというものは、めぐの死の原因は絹枝の不注意だ、ということからはじまっ て、ことごとくお富につくようになっていった。  おまけに、なかなか次の子供ができないことを理由に、外に女を求めるようになる。  こうなると唯一の頼りは義父の大黒屋五右衛門ということになる。  いきおい、絹枝は五右衛門に悩みを打ち明けようと近づくことになる。  それが、絹枝に本当の悲劇を降りかからせるものとは知らずに・・・  大黒屋には、「へた郎」という、当時12歳の丁稚奉公が、絹枝が大黒屋へ嫁ぐ前から住んでいた。  ほんとうの名前は五郎だったが、何をさせてもドジばかり繰り返し、あげくの果ては、投げ出して詫びる。いわゆるヘタレ男であることから、このあだ名がついたのだ。  へた郎、いや、五郎の家族も、その集落に住む極貧の家族で、その6人兄弟の末にうまれた五郎は、おきまりの口減らしのために、小学校を出たとたん、養子という形で大黒屋へ奉公人として出されていた。  大黒屋ばかりが悪いように聞こえるが、大黒屋は先祖代々の薬問屋であったため、その集落の住民全員の医療を引き受けたり、一番の資産家と言うこともあり、集落全体の家庭状況や経済状況を知りつくしており、その集落が全体としてうまく機能するように調 整する役目を果たしていた。文字通り、その集落の長であった。貧しい家の子しばし養子として引き取って、一人前にするのも、大黒屋の役回りちえば役回りであった。  そうはいっても、そんな事情で大黒屋で奉公を始めた五郎だから、その置かれた境遇は劣悪を極めた。  朝から夜遅くまで、薬の材料とりから始まって、それを煮立てたり、すりつぶしたり、そしてできた薬の実験台にさせられて体を壊したりする事もしばしばだった。  もちろん使用人であるから、家事、掃除など多くを押しつけられた。    住む場所はと言えば、母屋から離れた、今は使われていない作業場で、当時の日雇い労働者が仮寝をしていた部屋の押入であった。  わずかな小遣い程度の手当は貰っていたが、休日にも行くところはなく、出かけて行くすべもなく、ただひたすら大黒屋の中で働いて、食べさせてもらって、寝るだけの生活を繰り返していた。  それでも五郎はヘタれず、なんとか二年ほどが過ぎていた。  絹枝が大黒屋に嫁いできた時は、五郎は14歳になっていた。  当初は、五郎は絹枝を見ても何とも思わなかった。  新らしい奥さんが来たんだ、また一人、自分に命令する人が増えた、嫌だ、と思うぐらいだ。  同じ学校に行っていたはずなのに、歳が離れていたと見えて、五郎に絹枝の記憶はなかった。  絹枝もまた、五郎については、覚えていなかった。  そして、絹枝が大黒屋に嫁いだ時には、五郎は、絹枝のことなどなにも考えられないほど、毎日の生活に追われていた。  ところが、絹枝が妊娠し、お腹が膨らみ始めたころから、五郎が変わる。  そう、性に目覚めたのだ。  そのころ、五郎はすでに14歳になっていたが、もとより童貞であり、およそ性というものに白紙であった。  その余裕も、目覚める知恵も、機会も、皆無だったからだ。  そのくせ、体は男になっていく。  個人差はあるが、そのときの男の生理と心理は、読者なら、自分に置き換えて、勝手に想像してみるがいい。  たとえば私ならこうだ。  14歳よりは、ずっとはやかったが私が初めて夢精したとき(もっとも夢精というものを知らなかったのだが)、この年になってもまだ寝小便して恥ずかしいと隠したものだ。  それでいて、寝小便とは違う快感を覚え、確かにそれは寝小便とまったく違った液状だったので、なにか後ろめたい思いを抱いたものだ。  また、女の裸の股間をみる夢を見ることがあったが、そこはいつも白紙でぼやけていた。なにしろ本物をまじまじと見たことがなかったから無理もない。  五郎は余裕も暇もない丁稚奉公だったから、更に奥手だった。  いずれにしても、そのころから、五郎の絹枝を見る目が変わっていった。  大黒屋の便所は複数あったが、絹枝がいくところは五郎の寝泊まりするところの近くにあった。  通りすがりに小便の音がすると、それが誰から発する音かわからなくても、勝手に絹枝のものと想像して興奮する。  決定的だったのは、五郎がはじめて絹枝の全裸を見たときだ。  それはまったくの偶然だった。  もともと大黒屋の風呂場は、母屋から外にでて、母屋のなかを貫く土間の細い通路を経て、いったん外に出て、少し歩いた場所にあった。  それも、母屋と五郎の寝泊まりしている押し入れの途中にある。  しかもその風呂場は、何らかの理由で、浴場と脱衣が別れ、その移動には、いったん1メートル程、外に出て、見られないように、素早く脱衣場へ体を巧みに移動させなければならない、「造り」になっていた。  皆が寝静まった夜遅くという油断があったのだろう。  絹枝は全裸のまま、涼みがてらに、その白い、若さにはちきれた全裸を、一瞬のあいだ、解放していた。  そのときである。  母屋の掃除と後かたづけをようやく終えた五郎が、やっとこれで今日は終わりだ、寝ることができる、と小走りに寝ねぐらの押入にもどろうと走って来て、正面から全裸の絹枝とはち合わせになったのだ。  その時、もちろん絹枝は驚いた。  しかし、絹枝は十分に大人であった。  「ごめんなさい」と軽くほほえんで、五郎の驚きを沈めるように脱衣場にすばやく身を隠した。  しかし、五郎の受けた衝撃は、はかり知れなかった  あんな美しく、なまめかしい全裸の女の体は、後にも先にも、五郎の人生においてお目にかかることはないと思われるほどだった。  しかも、五郎が衝撃を受ける絹枝との体験が偶然にその後も続く。  それから一週間ほどたった時の出来事だった。  あのときから五郎は性に目覚め、絹枝の裸身を片時も忘れらなかった。  そしてある日、風呂に入っていた五郎は、絹枝の裸身を思い浮かべて自らのものを屹立させながら、湯船を出て体を洗おうと立ち上がった、その時であった。  風呂場の石鹸が切れてることに気付いた絹枝が、五郎に手わたそうと、勢いよく戸をあけた。  「五郎ちゃん、せっけん・・・」     と言おうとして飛び込んだ絹枝は、五郎の裸身を正面から見てしまう。  そしてその時も、受けた衝撃と興奮は、五郎のほうがはるかに大きかった。  しかし、そのような事が重なっても、およそ性に対し、それまでの人生で、あまりにもナイーブな五郎にとって、絹枝に対する性的好奇心が五郎の大黒屋での人生のすべてになったわけではない。  ましてや絹枝と五郎が女と男の関係になったわけではなかった。  それどころか、五郎にとっては、この大黒屋で、はじめて気が許せる人が現れ、絹枝は救いの神のような存在となるのである。  そして絹枝は、やはり、五郎の主人の一人であり、若い女将さんなのである。  唯一、五郎にとって、絹枝に親近感を抱いたとすれば、不幸があって以来の絹枝の大黒屋での苦しい毎日を見るようになって、初めて他人に、同情の気持ちを覚えるようになったことであった。  自分のようにつらい思いをしている人もいるんだと。  「同情するってことは、惚れたってことよ」という誰かの言葉があるが、まさしく五郎はその意味で、絹枝に惚れはじめていたのだ。  それは言い換えれば、真の愛は、身分や境遇を超えて対等であるということだ。  絹枝と五郎は、この大黒屋において、それぞれの悩みを打ち明けられる対等な仲になろうとしていた。        お富と長治の絹枝いじめは、その後もエスカレートしていく。  ついには、お富は、めぐに不幸が起きたのも、その後に子宝が恵まれないのも、絹枝の長治に対する愛が不純だからだ、という神のお告げがあったなどと言いだし、自分の見ているところで長治と「性愛」をしなければ幸せな子供が出来ない、というような異常 な要求を、絹枝に強要するようになる。  長治もまた、そんなお富を制止しようとしない。  たまりかねた絹枝は、ついに一大決心をして、五右衛門に悩みを打ち明ける。  もはや、五右衛門しかすがる相手はいない。  五右衛門は、もともとは理解のある常識な男だ。  そうでなければ、いくら数百人の小さな集落といえども、長として長年その集落をうまく運営はできなかったはずだ。  ところが、五右衛門には大きな弱点があった。  それは先代の婿養子だったということだ。  つまり、婿に来た時から、お富にまったく頭があがらなかった。  夫婦生活も、長治こそ生まれたが、その後の子宝に恵まれず、それどころか、まともな夫婦生活さえも遠ざかっていたのだ。  いわゆる真の愛がお富と五右衛門にはなく、従ってまた真の「性愛」もなかった。  そして、そんな五右衛門を絹枝が狂わせてゆく。  絹枝の、その、あまりの美しさと、色香は、悲しいまでに罪深いものであったのだ。  五右衛門は絹枝が長治の嫁として嫁いで来たときから、その魅力に惹かれていた。  しかし、息子の嫁に手をつけては人の道をはずすという理性と、お富の怒りのこわさから、それを長年押し殺して、同じ屋根の下で暮らしてきた。  それが、絹枝の方から、悩みを打ち明けるという形で近づいてきたのだ。  眠っていた野獣の心が動き出す。  五右衛門は相談相手には弱すぎた。  足繁く相談に通っても、同情はするが自分にはないもできないと言うばかりで、そのかわり絹枝の体を求めてきた。  絹枝は、それだけはお許しを、と、拒み続け、これで相談に行くのは最後にするつもりで訪れたその夜に、ついに関係を持ってしまう。  そして、その後も絹枝は同じ屋根の下で五右衛門と住み続ける他はなかった。  どんなに拒んでも、二度になり、三度になり、やがて長治とお富が疑うようになるまでには、そう時間はかからなかった。  そしてそこから、地獄の日々が更に続く。  悪いのはもちろん五右衛門のほうだが、責めはすべて絹枝に向かう。  地獄の日々のなかで、五右衛門もまた自らの罪深さに苦しみ、そのために急速に衰弱がすすみ、やがて痴呆があらわれるようになった。  五右衛門の痴呆が進むにつれて、お富と長治の絹枝に対す五右衛門との性的関係の追及は弱まるかわりに、絹枝は五右衛門の介護を一手に命じられるようになる。  五右衛門が倒れ、衰弱していくのは、絹枝の中に大黒屋に恨みを持つ怨霊がいると言って絹枝は責め立てられるようになるのである。  そのような苦しみからいち早く抜け出すようにして、五右衛門は、絹枝を見捨てるようにこの夜を去る。  そしてそのとき初めて絹枝は自らの出生の秘密を五右衛門から知らされるのである。  その時すでに絹枝は、お富と長治からの地獄の暮らしから逃れ、五郎と一緒に、新天地で人生を再出発しようと考え始めていた。  私の手で五郎を解放してやろう、そして私も五郎と一緒に人生を再出発しよう、そう絹枝は考えていた。  絹枝の地獄の日々を毎日見てきて、絹枝の苦しい心情をすべて絹枝から打ち明けられていた五郎もまた、絹枝を解放させたいと思っていた。  もはやこれ以上大黒屋で、先のまったく見えない絶望的な毎日を続けることに見切りをつけて、絹枝と新しい生活を切り開こうと思った。  二人のそんな思いは日増しに強くなり、そしてついに決心する日が来る。  絹枝21歳、五郎16歳の秋であった。  絹枝と五郎は、あらゆる知恵を絞って周到に準備し、決して失敗することなく、二人そろって大黒屋の地獄からぬけ出すことを考えた。  とにかく無事脱出できれば、あとは、どんな状況になろうとも、希望が待っているのだから。  希望。これ以上人を奮い立たせるものはない。  その夜、ついに絹枝と五郎は逃避行を決行する。  五郎が用意した眠り薬としびれ薬を夕食時に絹枝が飲ませる。  お富と長治が寝入り込んだ事を確認して、裏口から大黒屋の外の出て、田圃に延びる一本道を一気に5キロ先にある小高い鎮守の森に向けて走り、その森を駆け上り、社に身を潜めて、追っ手がこないかを確認する。  あとは夜明けとともに、一気に森を降りて進めば、その先は青森だ。  県をまたぐと、そこは行政も変わる。  あらたな人生がはじまる。  ふたりはその夢にむかって計画を実行した。  所帯道具の一式の入った袋を、それぞれの背中にしっかりしばりつけて、これ以上ない力を振り絞って二人は鎮守の森に向かって走った。  五郎がつくり、絹枝が飲ませた眠り薬としびれ薬は間違いなく効いているはずだ。だが、ひょっとして、若い長治が目を覚まし、急いで追って来ないとも限らない。  そんなおそれが二人を振り向かせず、一気に走らせた。  その夜は青く白い月があたりを幻想的に照らし、虫の音がやかましいほどに美しく鳴いていたが、二人には、なにも見えず、何も聞こえなかった。  そしてついに二人は鎮守の森にたどり着き、そこで背中の荷を降ろし、おそるおそる木陰に身を潜めながら、後にした大黒屋の方向に目を凝らせた。  そこには、青い月夜に照らし出された静寂しかなかった。  成功したのだ!  「五郎ちゃん」  絹枝は、大黒屋へ嫁いでからというもの、決して見せた事のないような安堵と幸せな表情を浮かべて、五郎に言った。  「もうだいじょうぶよ。これを食べて、ゆっくり休んで、そして夜明けとともに元気で出発しましょう。新しい未来へ。今度こそ私たち幸せになるのよ。うまれてはじめて。どんな気持ちかしら。一度でも味わって見たかった。お酒もこっそりいただいてきちゃ った。もう飲んでもいいでしょ?」  そう言って、手作りのおむすびと豪華なおかずの数々を並べ終えた後、夜露に冷えた土の上に布団を敷くのだった。  絹枝の家財道具だと思っていた大きな風呂敷は、それだけだった。  五郎は、一瞬いぶかしく思ったが、安堵とともに空腹感が五郎を一気に襲い、絹枝の作った晩餐をむさぼった。  こんなにおいしいものを、こんなに腹一杯食べたのは、もちろん、五郎はうまれてはじめてであった。  五右衛門や長治たちが毎晩のように飲んで赤い顔をしていた酒というものを五郎が口にしたのも、このときがはじめてだった。  絹枝は、自分はなにもたべようとせず、これ以上ない満足そうな表情をして五郎をながめていた。  五郎が一通り食べ終え、あたりがふたたび、もとの静寂に戻ろうとした、そのとき、風もないのに絹枝の背後の茂みが突然大きくゆれ、大きな音を立て飛びかかってくる。  「助けてー!」  てっきり長治が追ってきたと思った絹枝は悲鳴をあげて五郎に飛びついた。  なにがあっても体を離れないように力いっぱいしがみついた。  絹枝が男を頼ってここまで強くしがみついたのは、これまた、はじめてであった。  結局、その音は、鳥の飛び立つ音だったことがわかり、二人は再び今度こそ安堵した。  その安堵感が急速に二人を近づけ、二人は強くお互いを抱きしめることになり、やがてそれは、男と女の「性愛」に変わっていき、二人の初夜となった。  あのとき偶然にかいま見た絹枝のうっすらとピンク色に染まった白い体、少し前屈みになりながら片足で立ち、もう一方の足を曲げ、片方の手で体を支えていた姿。胸からは大きな二つの乳房が、張りのある形をそのままにして下がり、その先に大きなくびれた 腰が曲線を描き、その奥に見えた漆黒の股間。それが今目の前によみがえった。  その夜の絹枝は、五郎にとって、天女であり、観音菩薩であり、ヴィーナスであった。  五郎が夜明けの日差しに起こされた時、絹枝は手首から血を流して息絶えていた。  それから数時間後、五郎は警察署の取り調べ室で次のように教えられる。  絹枝が長治に気に入られて無理矢理、幼ななじみの晋三と別れさせられようとした時、絹枝は泣きじゃくって抵抗した。  その抵抗が、兄の佐吉がその夜絹枝だけにこっそり打ち明けた言葉で止む。  実は晋三と絹枝は血のつながった近親関係にあり、その集落では許されない仲だったのだ。  その昔、その集落は事情があって、一時、近親相姦が頻繁に行われた時があり、集落全体が危機に見まわれた。  それ以来、その集落で近親相姦が起きれば、その者たちは、家族ともども集落から追放されるしきたりができたのだ。  絹枝が、悲しいながらも、最終的に大黒屋に嫁ぐことになった理由はここにあったのだ。  しかし絹枝が打ち明けられたのは、それだけではない。  遙かに衝撃的な事を、絹枝は死ぬ間際の五右衛門の口から知らされることになる。  晋三と五郎の本当の関係はその集落の誰も知らなかったが、その集落のすべての戸籍台帳を持ち、戸籍情報を握っている五右衛門だけは知っていた。  晋三と五郎は元をたどれば同じ両親から生まれた歳のはなれた実の兄弟だったのだ。  そのことを五右衛門はいまわの際に絹枝に教えたのだ。  自分の死後は、絹枝と五郎が大黒屋を抜け出す事になるだろうと察知していた五右衛門は、おそらく老婆心でそう絹枝に教えたのだろう。    絹枝は晋三と同様、五郎とも結ばれる事を許されない関係なのだと。  五右衛門には悪気はなかったのだろう。  その集落を出て出自を隠せば誰もわからない。  もちろん五郎にもわからない。  そう五右衛門は言いたかったのかもしれない。  しかし、やはり五右衛門は、その秘密を墓場まで持って死んでいくべきだったのかも知れない。  そうすれば、皆が幸せになれたに違いない。  いや、絹枝がその秘密を一蹴できるほど強ければ、五右衛門の告白は克服できたかも知れない。  しかし、絹枝はその時、自分と五郎の二人がともに幸せになることは許されないと考えた。  その秘密を告げられた以上、自分の選ぶ道は一つだった。  脱走を行うまでの間に、五郎に相談することなく、一人で考え、決断した。  自分の苦しみなどよりはるかにつらい状況に置かれてきた五郎、、そしてこのままではずっとそうした状況に置かれ続ける五郎を、その夜、苦界から助けてやろう。  自らの犠牲と引き替えに、必ずそれをかなえ、自らの愛で、その門出を祝福してやろう。  絹枝は自分にそう言い聞かせた。  そう覚悟して、絹枝はあの夜、大黒屋を出たのだ。  いまから振り返れば、すべてに合点が行く。  情状酌量で警察から放免された五郎は、大黒屋にもどって絹枝の葬儀を済ませ、暇を乞うて、大黒屋とその集落を離れる。  その後、五郎は立派に成人し、あらたな伴侶を得てみずからの人生を歩む事になった。  五郎にとってあのときの絹枝は、青く白い夜空に舞まいあがったまぼろしの吉祥天女だったのだ。  いまでも、絹枝と必死に走った一本道や、たどりついて安堵した鎮守の森や、そして、おそる、おそる振り返った大黒屋の浮かび上がった集落を、五郎は思い出すことがある。  幻想的に照らし出された、あの美しく、悲しい、青い、白い、月夜のことを(完) ──────────────────────────────── 購読・配信・課金などのお問合せやトラブルは、 メルマガ配信会社フーミー info@foomii.com までご連絡ください。 ──────────────────────────────── 編集・発行:天木直人 ウェブサイト:http://www.amakiblog.com/ 登録/配信中止はこちら:https://foomii.com/mypage/ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

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