━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 山田順のメールマガジン「週刊:未来地図」 No.042 2013/06/25 なぜ最初の「赤字国債」は発行されたのか?その背景と経緯 ウェブで読む:http://foomii.com/00065/2013062509000016108 EPUBダウンロード:http://foomii.com/00065-16781.epub ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 前回のメルマガ(第41回)では、現在にいたる日本の巨額債務(償還できない国債)の出発点となった1965年の国会論戦をレポートしました。 今回は、その補足編として、なぜ禁じ手である「赤字国債」が発行されたのか? その背景と経緯をお伝えします。現在進行中のアベノミクスの金融・財政政策を考えるとき、忘れてはならない、日本の大きなターニングポイントです。 [目次]─────────────────────────────────── ■「建設国債」とっても、それは「赤字国債」 ■戦後の国家破産の教訓はじょじょに希薄化 ■「昭和40年不況」と『三丁目の夕日』の世界 ■オリンピック後に来た「高度成長のゆがみ」 ■不況の深刻化で税収不足が顕在化 ■当初は予算「1割留保」の緊縮財政だった ■「財政の健全」よりも「景気対策」を優先 ■特措法で発行すれば「歯止め」が利くと考えた ■赤字国債の発行はいつまで続けられるのか? ────────────────────────────────────── ■「建設国債」といっても、それは「赤字国債」 東京オリンピックの翌年の1965年、日本は不況に陥った。いわゆるオリンピックの反動不況(昭和40年不況)である。これで税収が落ち込んだため、次年度予算で財政規律を破り、本来ならしてはいけない「赤字国債」の発行に踏み切った。 その額、2590億円。 これは、国家予算の100分の1に満たない額だったため、当時の大蔵大臣・福田赳夫も「わずかな額なので」と言って、それほど気にしなかった。 ただ、社会党の木村禧八郎議員は「財政法」の規定堅持を改めて主張し、福田蔵相の言う建設国債は、じつは「赤字国債」と呼ばねばならないと指摘した。 いかに「建設国債」という名前を使おうと、その支出が収益性と回収性がない場合は、それは、赤字的支出であり、赤字的支出に対して発行する国債は、「赤字国債」だと、12月25日の参議院予算委員会で追及したのだった。 つまり、「ごまかすな」というわけだ。 結局この「ごまかし」が、その後、麻薬のように習慣化し、1000兆円というGDPの2倍に匹敵する債務をつくり出してしまったのである。では、なぜこんなことになったのだろうか? その経緯と背景を説明したい。 ■戦後の国家破産の教訓はじょじょに希薄化 戦後、日本国は、ハイパーインフレと預金封鎖によって、国家破綻してしまった。国民の富は、ほぼ一瞬にしてなくなり、国債は紙切れとなった。その苦い経験から、GHQの管理下に入った日本政府は「財政均衡主義」を徹底することになった。 これは、税収の範囲で支出し、赤字はつくらないということだ。 憲法では「財政の国会中心主義」(83条)をうたい、財政法では「赤字補てんのための国債発行を禁止」(4条)し、さらに「国債の日本銀行引き受け禁止」(5条)を決めた。 また、国家予算には、戦前、軍事費膨張の引き金になってしまった「継続費条項」を設けず、年度主義を取った。継続条項を設けると、ツケが次年度に繰り越されるからである。 しかし、ここまで徹底したというのに、これが厳格に守られたのは1953年までだった。 1950年(昭和25年)、朝鮮戦争が勃発すると、GHQの命令で自衛隊の前身である警察予備隊が発足し、2年後の1952年には、戦前財政の悪弊の1つであった継続費条項が復活してしまったのである。また、1954年には、債務負担行為の支出年限が単年度から5年に延長されている。 こうして、「均衡財政」はじょじょにだが破られ、ついに1965年(昭和40年)のオリンピック反動不況で、税収不足補てんのために「赤字国債」に手を出してしまうことになった。 一般的に、借金によってまで支出を増やし、経済の拡大を狙うのを「積極財政」と呼ぶ。しかし私には、なぜこれを、「積極財政」と言うのか、よくわからない。 いずれにせよ、政府は「特措法」をつくり、財政法を事実上破ることになってしまった。 ■「昭和40年不況」と『三丁目の夕日』の世界… … …(記事全文6,813文字)