テレビのニュース番組は、昨日(2月1日)からずっと石原慎太郎を礼賛する報道を続けている。ネットのマスコミである Yahoo トップのニュースクリップ一覧も、石原慎太郎の称賛記事ばかりがギッシリ並んでいる。日本中が石原慎太郎の功績を言祝ぎ、日本の正義の象徴として仰ぎ、現代の政治思想の英雄として認めて讃えている。これを見て、これを受け止めて、これに耐えないといけない。辛抱して時間が過ぎるのを待たないといけない。凍りつくような寒々とした空間で意味を考えないといけない。精神的拷問のようだ。 石原慎太郎が、まるでエジプトの太陽神のように崇められ、まばゆい光彩の映像だらけで生涯が紹介され、その活躍と偉業に日本全体が喝采を送っている。そうした仮想「国葬」空間が醸成され、演出され、日本人が石原慎太郎と同一化・一体化する祭祀が行われている。石原慎太郎の思想と行動がこの国の正統として確信づけられている。標準の思想像として宣教されている。批判はない。一言もない。否定的な評価を与えているのは、韓国と中国の報道だけである。自分がどれほどの異端に追い込まれたかを実感させられる。 厳しく重たい孤独感。日本人というのは、基本的に一つの共同体の中に生きていて、村八分の身になることが耐えられない生きものだ。日本全体の所与と現状は、いわば胎児にとっての羊膜腔であり、人はどこまでも日本という共同体を信じてフックしコミットしようとする。一体性と等質性の中に安心感を持ち、そこに断絶や齟齬や距離が生じることを本能的に恐れ忌み嫌う。みんなと同じ自分であることを願い、平均像や中心点から離れることに不安を抱く。私も日本人の一人であり、その例外ではない。だから、今回の石原慎太郎の「国葬」と礼賛は傷つく。島流しされた罪人の孤絶だ。 2003年、都知事だった石原慎太郎は、右翼が田中均の自宅ガレージに爆発物を仕掛けた事件が起きたとき、公の場で「爆弾仕掛けられて当たり前だ」と言い放ち、テロ脅迫を正当化して幇助した。2001年、都知事だった石原慎太郎は、「女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄」「文明がもたらしたもっとも有害なものはババア」と週刊誌上で暴言を吐いている。2016年には、相模原やまゆり園事件の加害者を擁護し、「事件犯の気持ちがわかる」と公言している。都知事時代、重度障害者の病院を視察した際、「ああいう人ってのは、人格があるのかね」と侮辱する妄言を残した。… … …(記事全文3,360文字)
世に倦む日日
田中宏和(ブログ「世に倦む日日」執筆者)