昨年の10月、辺見庸が菅義偉のことを特高顔だと言って物議を醸した一件があった。毎日の夕刊に載ったインタビューで、「菅さんっていうのはやっぱり公安顔、特高顔なんだよね。昔の映画に出てくる特高はああいう顔ですよ」と言っている。言い得て妙であり、正鵠を射ていて、傑作の政治的洞察だと思う。さすがに辺見庸の観察眼は鋭く、文学者らしい辛辣な表現で本質を捉えている。単に市民の批判的な嗅覚と表象を代弁しただけでなく、日本の政治の核心を衝き、この国の政治史の真相をよく教示している。 政治学的に価値の高い寸言であり、長く参照されることだろう。その辺見庸だったら、泉健太の顔を見て何を直観してどう言語化するだろうか。辺見庸を真似して遠慮なく言えば、私は率直に、泉健太の目つき顔つきに底知れぬ薄気味悪さを感じる。あの雰囲気と言葉つきが不吉で不快だ。本人や支持者には恐縮だが、これは多分に生理的で本能的で個人的なもので、私がここまで嫌悪感と警戒感を白状する政治家はあまりいない。それがなぜなのか、自分でも原因がよく分からず戸惑う部分がある。 政党の新代表に向かって、いきなり面相を問題にした批評から切り出すのは、無名異端のブログとしても不躾すぎて些か気が引ける。が、先日、NHKの歴史番組の『英雄たちの選択』を見ていたら、三浦按針(ウィリアム・アダムス)の特集を放送していて、家康が按針を接見・尋問した最初の出会いの幕が紹介され、磯田道史が興味深い解説を加えていた。家康は按針と対面すると、長い間じっと目を見つめていたというのである。何十秒か、ひょっとして1分以上、黙ったまま、按針の視線と表情を食い入るように凝視した。 人物を観察して、何者か、どの程度の器量かを評価し鑑定したのである。そのくだりを説明した後、ある経営者から聞いた談話を引き、ビジネスで相手を信用できるかどうかは目を見て一瞬で決める、話の内容では判断しない、という挿話を被せて老獪な家康のスタイルを称賛した。説得力のある歴史の逸話であり、カリスマ家康の人間力を感じさせ、古今普遍的に通ずる法則性を考えさせられる。言葉以上に、目つき顔つきの情報から、その者の真相や真意や動機や思惑がキャッチされるのだ。… … …(記事全文4,162文字)
世に倦む日日
田中宏和(ブログ「世に倦む日日」執筆者)