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第4回 天皇制のルーツは中国王朝にあり
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第4回  天皇制のルーツは中国王朝にあり


第10章 天皇制のルーツは中国王朝にあり

 

「日月神示」という書物には、「古事記」の天照大神の岩戸隠れ後、偽物の天照大神が岩戸から出て来たために、今の世は闇となり、地獄と化したとされる。『古事記』や「天皇制」とは、偽物の天照大神が闇の世を支配するために“道具”であると示唆している。

 

前章では、『古事記』の内容には多くの矛盾が含まれており、『天皇制』についても“天照大神の子孫”というよりも、ニセモノの天照大神に指示に従う、現実界の支配の道具に過ぎず、神武天皇から第15代の応神天皇までは“存在が確認できない人間”であることを確認してきた。

 

それでは、初代神武天皇から第15代応神天皇とは、一体、何者なのであろうか?ヒントとなるのは、第15代応神天皇であり、中国の秦王朝との関係である。『古事記』の内容が出鱈目であるとすれば、中国の歴史書との接点を紐解くことによって、“真実”が浮かび上がる可能性もある。本章では、初代神武天皇から第15代応神天皇までの「日本の天皇制」と殷・周・秦という「中国の古代王朝」との関係について検討する。


 

応神天皇のモデルは秦の始皇帝?

 

『古事記』に登場する神武天皇や第2代から第9代までは「欠史8代」とされ架空の人物との評価が歴史学会でもされている。それだけでなく第10代の崇神天皇から第15代の応神天皇までも、考古学上の証拠はなく、架空の人物との可能性が極めて高い。

 

一方で、仲哀天皇が九州で討ち死にし、大和朝廷が危機的状況の中、最高権力者の神功皇后と武内宿禰が三韓征伐に乗り出し、三韓征伐から帰国と同時に応神天皇が生まれ、中国の秦王朝からの渡来人を爆発的に受け入れ、大和朝廷のために働かせているとはいささか不可解である。応神天皇という架空の人物に関連付けて、中国からの渡来人が大和朝廷に関係していた事実を神話にして胡麻化している可能性すら浮上する。ヤスシと中川の話は中国の秦王朝へと及ぶ。

 

ヤスシ   大学受験では世界史を選択していたので、日本史とは違ってある程度は知識があ

      るから、こちらでも中国の秦王朝について調べてみた。中国の歴史とは、殷

      (BC16世紀~BC11世紀頃)、周(BC11世紀~BC770は西周、BC770

      ~BC256は首都移転し東周に)、春秋時代(BC770~BC403)・戦国時代

      (BC403~BC221)、秦(BC8世紀~BC206:中国統一BC221~BC

      206)と続き、中国の殷周秦王朝に関しては三皇五帝の時代より四夷(東夷、

      北狄、西夷、南蛮)と呼ばれる周辺遊牧民国家とされる。『孟子』によれば殷の

      祖・五帝の舜は農耕神・水神であり東夷の人、周の文公は西夷人であり、中国に

      農業がなかった時代に黄河の氾濫を利用した灌漑や船の技術を持っていた周辺遊

      牧民から農業を学んでおり、彼らがナイル川やチグリス・ユーフラテス川付近か

      らの遊牧民である可能性が高いと言える。

中川    要するに、中国の殷・周・秦という3つの王朝に関しては、漢民族ではなく、東

      夷、北狄、西夷、南蛮と呼ばれた周辺遊牧民国家ということだな。

ヤスシ   それでは、秦の始皇帝について説明してもらおうか?

中川    秦の始皇帝の政は、戦国時代の秦の第31代君主。秦という国自身は戦国時代か

      ら中国にあった。父親は荘襄王、母親は趙姫といい、荘襄王は幼少期に異人とい

      う名で趙へ人質に出されていた。それに目を付けた韓の豪商・呂不韋は、異人に

      接触して資金援助を行って、自らの妾(趙姫)を異人と結婚させた。その子が政

      (のちの始皇帝)となる。もともと異人は秦王の妾(夏姫)の子だった。そこで

      異人を次期秦王とするため、呂不韋は秦王(安国君)の正妻で、子のなかった華

      陽に接触して、異人を華陽の養子にすることに成功する。即位後1年で死去した

      安国君の後、第30代君主として異人は荘襄王となり、呂不韋を氶相、華陽と趙

      姫を太后として、呂不韋を派遣してBC256年に東周を滅ぼす。ただし、呂不韋

      は、東周の王族を存続させて、秦がその祭祀を引き継いだという(『史記』)。そ

      して、3年の在任で亡くなった荘襄王に代わり、13歳の政が第31代君主とな

      ると、呂不韋が幼い政の世話役となって、BC241年に函谷関の戦いで、楚、

      趙、魏、韓、燕の五国連合軍を破り、秦が中国を統一していく。

ヤスシ   あれっ、荘襄王を仲哀天皇、趙姫を神功皇后、呂不韋を武内宿禰、始皇帝・政を

      応神天皇と置き換えると、まるで『古事記』の話にそっくりだな!1つ目は、荘

      襄王も仲哀天皇も妾の子であり、先帝が子だくさんであったにも関わらず皇位を

      継承していること。2つ目は、荘襄王も仲哀天皇も妻には呂不韋と武内宿禰とい

      う愛人がいたこと。3つ目は、趙姫と神功皇后は子供が幼くして摂政の地位に就

      き、愛人の呂不韋と武内宿禰が国政を担っていること。4つ目は、実質的に国を

      統一したのが愛人の呂不韋と武内宿禰であり、実子の始皇帝・政と応神天皇へ皇

      帝の座を譲っていることなど、全く同じストーリーだ。

中川    政が始皇帝となってからも、呂不韋と趙姫の関係は続いており、好色な趙姫に対

      して、呂不韋は別の男(嫪あい)を紹介し、嫪あいを“宦官”と偽って宮廷に出入

      させるうちに趙姫は2人の子供を出産してしまう。このニュースが政の耳に入る

      と、呂不韋も含めた異父兄弟らからの謀反の企てが政に発覚し、嫪あいと2人の

      子供らは処刑され、呂不韋は流刑とされたため服毒自殺を図る。

ヤスシ   嫪あいの2人の子供は政の異母兄弟だから、神功皇后が畿内に帰る途中で、新生

      児である応神天皇の異母兄の香坂皇子、忍熊皇子が畿内で謀反を起こした事件と

      ほとんど同じだ。また、政の不信感によって呂不韋は流刑とされて服毒自殺を図

      ったこととは、応神天皇が「兄の武内宿禰は筑紫と三韓を利用して天下を奪おう

      と画策しています」との甘美内宿禰の密告を真に受けて暗殺を試みたという話に

      似ているな。

中川    『古事記』に記載があった、秦氏の民の渡来に便宜を図ったという応神天皇と始

      皇帝を比べてみれば、応神天皇というのは、中国の始皇帝をモデルにして描かれ

      た虚像である可能性が見えて来たね。だから、『古事記』に描かれているような

      応神天皇の考古学的証拠が見つからないわけか!

ヤスシ   『古事記』には登場するが、考古学上の証拠が見当たらない応神天皇が秦の始皇

      帝をモデルにした架空の人物である可能性高くなった。ということは、神武天皇

      と欠史8代というのも、殷王朝や西周王朝や東周王朝の創始者とかじゃないだろ

      うな?『古事記』とは、そこまで露骨に中国王朝をモデルにした架空の人物を並

      び立てているわけじゃないだろうか?

中川    東洋史の学者としても、非常に興味深い話になってきたようだ。少し調査してみ

      よう!

ヤスシ   よし、それでは、『古事記』に登場する初代神武天皇から第15代応神天皇まで

      の“考古学上の証拠が見当たらない15人の天皇”とは、古代中国の殷王朝や西周

      王朝や東周王朝や秦王朝をモデルとした“架空の人物”であり、古代日本の支配階

      級となった天皇家や賀茂一族とは“中国王朝からの渡来人である”という仮説を

      「古代史の暗号コード:(その7)」と命名しよう!


 

神武天皇のモデルは西周の武王?

 

「日月神事」という書物には、「古事記」の天照大神の岩戸隠れ後、ニセモノの天照大神が岩戸から出て来たために、今の世は闇となり、地獄と化したとされる。そして、4回目の岩戸閉めとは、神武天皇という「人皇」が「霊界の正神」と「現実界の人間」を分離したことだとされる。

 

早い話が、霊界の正神である本物の天照大神や素戔嗚尊らが、現実界の人間に接触できなくしたうえで、正神の代わりに、ニセモノの天照大神の子孫である「人皇」を崇拝させたということだ。そして、少なくとも、太平洋戦争中には、昭和天皇は“神様”として扱われ、「昭和天皇の辺で死のう」と『海ゆかば』で高らかに歌われながら、若い命が無駄死にされた。神も仏もない時代であった。

 

ところが、そうした“洗脳”を作り出した『古事記』を確認していけば、最初に「人皇」を宣言した神武天皇から第15代までの応神天皇までが、中国の殷・西周・東周・秦王朝をモデルにした「架空の人物」である可能性が出て来た。

 

『古事記』や「天皇制」とは、偽物の天照大神が闇の世を支配するために“道具”であるとされたが、『古事記』に描かれる応神天皇とは、中国の秦王朝の始皇帝をモデルとしており、古代日本を支配した天皇家とは、“古代中国王朝からの渡来人”である可能性が浮上した。それでは、初代神武天皇も“古代中国王朝からの渡来人”なのだろうか?ヤスシと中川の話は続く。

 

ヤスシ   『古事記』に登場する応神天皇は、秦の始皇帝をモデルにした架空の人物の

      可能性があるが、それでは、神武天皇と欠史8代というのは、殷王朝や西周

      王朝や東周王朝の創始者と関係があるのかな?

中川    神武天皇と崇神天皇らのエピソードを殷・西周・東周王朝の創始者の実話と

      比較したところ、ありもあり、大アリクイだ!結論から言えば、『古事記』に登

      場する神武天皇と崇神天皇は、西周の武王と東周の平王をモデルとした架空の人

      物である可能性が高い。キーワードになるのは、中国で周を建国した后稜とその

      母親の姜嫄、そして、殷王朝を倒して周王朝を建国した武王。『孟子』によれ

      ば、殷も周も周辺遊牧民が建てた王朝だったが、周の文公(殷末期の殷属国時代

      の周の君主)は西夷人とされている。

ヤスシ    后稜と姜嫄は山川出版社の『詳説世界史』には出てこない名前だな。

中川     周という国は西方遊牧民族出身の姜嫄(しょうげん)の息子・后稜が建国し 

       たとされる。西方から中国へやってきた当初は周は殷に従属していた弱小国

       だった。后稜は中国に周を建国したとされるものの、周の場所に定住したの

       はその後の古公亶父(こごうたんぽ)の時代とされ、周辺遊牧民の攻撃にあ

       い、豳(ひん)という地域から、後の周の都に近い岐山の麓へ移住して穴倉生

       活から周を建てたとされる。古公亶父の息子の姫昌(文公)の時代には周国

       は繁栄したものの、殷の傍若無人に対して従順だったが、BC1046年に姫

       昌の子である武王が殷を滅ぼして周王朝を樹立する。武王は建国後すぐに

       死去して、幼くして2代の成王が即位すると周公旦が摂政となるが、殷の遺

       民を掌握していた武庚(殷王朝最後の王の子)らの三監の乱がはじまる。周

       公旦が鎮圧してから、3代の康王までが周の全盛期となる。4代の昭王、5代

       の穆王、6代の共王と衰退し、7代の懿王(いおう)の時代には鎬京から犬丘

       へ遷都するほど衰退し、8代の孝王と9代の夷王では臣下を重んじることでな

       んとか安定したが、10代の厲王(れいおう)は富を独占したため反乱がおき  

       て国外逃亡して、周は周定公と召穆公という2人の大臣の合議制の共和制と

       なった。

ヤスシ    ということは、周王朝は1回終わったということか!

中川     その後、周定公と召穆公らの大臣は、政治に関心の薄い11代の宣王を截る

       も、12代の幽王は、申から政略結婚で迎えていた皇后を廃して、美人の  

       褒姒(ほうじ)を皇后としたため、激怒した申は犬戎と共闘して周へ攻め込

       み、幽王と褒姒の子を殺害して携王が即位した。一方で、申からの元皇后の

       息子は母親と申へ逃れていたが、申で平王として即位してBC770年に洛邑

       へ遷都して東周を建国した。その後、平王は叔父の携王と対立し、BC759

       年に東西分裂していた周を統一した。

ヤスシ    こうしてBC770年に東周王朝が誕生というわけか!

中川     さて、BC1046年頃に殷を倒した革命戦争からBC771年の洛邑遷都ま

       でを西周と呼ぶことが多いが、西周の始祖は后稜であり、その母親の姜嫄に注

       目すれば、『史記』『詩経』において、周の建国者・后稜は、その母親・姜嫄か

       ら性交渉なしで出産されていることがわかる。ある時、姜嫄が野で巨人(=

       帝)の足跡を見つけた。それを踏みつけると妊娠してしまった。そこで、気味

       が悪いので出産した子供を何度も捨てたところ、どういうわけか戻ってきてし

       まった。そこで奔(のちの后稜)と名付けて育てることにした。これがのちに

       后稜となり周を建国するとされる。

ヤスシ    ああ、『山城国風土記』に出て来た、加茂川で流れてきた丹塗矢を持ち帰っ    

       たら妊娠して賀茂別雷命を産んだ玉依姫の話と同じだ。玉依姫は神武天皇

       の母親だから、中国の西周王朝の姜嫄と后稜の伝説をそのまま真似て作り

       上げたフェイク・ストーリってわけだ!

中川     そして、殷を倒して西周王朝を建国した初代の武王をモデルとして、日本では

       神武天皇という架空人物を作り上げたということではなかろうか?西周王朝

       は西方遊牧民族の出身で東の中国までやってきて征服王朝を作り上げたた

       め、「神武の東征」としたわけだ。そして、西周王朝の第2代の成王から9代

       の夷王までを大雑把にモデルにしていった。第10代の厲王は逃亡したから

       数に入れていないということかな。


 

崇神天皇のモデルは東周の平王?

 

応神天皇は秦王朝の始皇帝をモデルにした架空の人物であり、神武天皇と欠史八代は西周王朝の王をモデルにした架空の人物であり、古代日本の天皇家や賀茂一族とは、古代中国王朝からの渡来人の可能性が浮上する。それでは、崇神天皇からの4代は、同様に古代中国王朝の王をモデルとした架空の人物なのだろうか?ヤスシと中川の話は続く。

 

ヤスシ   ということは、『古事記』に登場する崇神天皇とは、東周の創始者・平王という

      ことになるのかな?

中川    その通り!周とは、西(シリア)からやってきて殷を滅ぼした西方遊牧民で、西

      周の武王から9代の夷王までの周王は存在したものの、10代目は反乱のため国

      外逃亡し共和制となり、12代目は離婚問題で申と西夷人により都を奪われる。

      周の都が鎬京にあった西周の時代の末期、異民族・犬戎の侵入により12代幽王

      が戦死し、周は都を洛邑へ移して東周の時代が始まる。東周からの春秋時代に入

      ると(東)周の平王と同格の斉の桓公、晋の文公、楚の荘王、呉の夫差王、越の

      勾銭王の春秋5覇の群雄割拠がはじまる(異説あり)。洛邑に都を移した東周の

      平王、桓王、荘王、釐王、恵王の時代、東周は同族の斉と同盟関係にあり、東周

      時代の初期には斉の国力は東周を上回るほどだった。東周の釐王は有力諸侯の斉

      の桓公とともに、楚という敵国の熊一族を成敗しており、これが日本のヤマトタ

      ケルのモデルであると考えられる。

ヤスシ   東周の釐王(きおう)と斉の桓公による楚の熊一族の成敗の話をモデルにし

      てヤマトタケル伝説ができあがったって?

中川    実質的に有力諸侯の1つに没落していた東周は、強国の斎の桓公や晋の文公

      に“顔を立ててもらっている状態”だった。斉の桓公(姜小白)の時代(B

      C685-BC643)、斉は東周を上回るほどの最盛期を迎え、BC679年

      に斉は、宋・陳・衛・鄭と同盟を組織しすでに実権を失っていた東周(襄王)に

      代わり、西戎、北狄、徐、楚を討伐し、BC651年の葵丘の会盟で斉・魯・

      宋・陳・衛・鄭・許・宋と同盟を結んで楚を撃破している。また、斉の桓公と東

      周の釐王は楚の熊一族を成敗しており、釐王は荘王の子として生まれたが、荘王

      からの寵愛を受けられず異母弟と対立。斎の桓公の本名は小白という。

ヤスシ   なるほどヤマトタケルの物語と瓜二つだな!

中川     『古事記』では、景行天皇の子のヤマトタケルが南の熊襲を退治し、父親で

       ある景行天皇とは仲が悪く、熊襲討伐や蝦夷討伐にばかり派遣されていた。

       父親の荘王と仲が良くなかった釐王と同じ話であり、ヤマトタケルがたくさん

       の兄弟がいて対立しており、ヤマトタケルの小碓(=小臼)という名前も、斉

       の桓公の小白とほとんど同じになっている。ただし、ヤマトタケルは斎の桓公

       と東周の釐王の両方をモデルとして造られたキャラクターであり、やや複雑化

       している面もある。釐王は東周の王となったが、ヤマトタケルは討ち死にして

       いたりしてね。

ヤスシ    『古事記』に登場する初代神武天皇から第9代開化天皇までは存在が不明

       であり(欠史八代)、第10代の崇神天皇から第15代の応神天皇までも存在

       が怪しいとされて考古学上の証拠もなかったが、それもそのはずだな。神武

       天皇は西周の武王、欠史8代は西周の王、崇神天皇は東周の平王、景行天皇は

       東周の荘王、ヤマトタケルは斎の桓公と東周の釐王、応神天皇は秦の政をモデ

       ルにした“架空の人物”だったとは!

中川     『古事記』では、神武天皇と崇神天皇を“御肇国天皇(はつくにしらすすめ

      らみこと)”としているが、“御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)”とは、

      「西周の最初の王」と「東周の最初の王」を示していたということだ。第10代

      の崇神天皇、第11代の垂仁天皇、第12代の景行天皇、第13代の成務天皇、

      第14代の仲哀天皇、第15代の応神天皇というのは、中国の東周建国者の平

      王、桓王、荘王、キ王、恵王の話をもとに作られた虚像の可能性がある。そし

      て、応神天皇とは秦の始皇帝がモデルとされた架空の人物ということになる。

ヤスシ   ということは、巷で言われているように、仁徳天皇稜が残っている仁徳天皇か

      らは、実際に存在した天皇ということで、それまでは完全に謎の世界であり、

      天皇というものが存在したというよりも、有力な豪族が複数いただけで、その

      中の1人が仁徳であったというだけなのかな?

 

本章の考察によって、「『古事記』に登場する初代神武天皇から第15代応神天皇までの“考古学上の証拠が見当たらない15人の天皇”とは、古代中国の殷王朝や西周王朝や東周王朝や秦王朝をモデルとした“架空の人物”であり、古代日本の支配階級となった天皇家や加茂一族とは“中国王朝からの渡来人である”」という「古代史の暗号コード:(その7)」が事実である可能性が浮上する。

 

つまり、少なくとも日本列島には存在しない架空の人物を、“天照大神の子孫である人間・神武天皇”として、神々から人間へと「変態」させてまで、「天照大神―>ニニギー>山幸彦―>ウガヤフキアエズー>神武天皇」という系譜が作出された。『古事記』という“大嘘だらけの書物”を編纂させてまで、日本人の潜在意識に「天照大神の子孫である天皇家によって現実界は統治されるべきもの」という考えを植え付けたことがわかる。『日月神示』では、これを4回目の岩戸閉めと呼んでいるようだ。

 

さて、ここまでのヤスシと中川の考察の中で、中国の殷周秦王朝に関しては三皇五帝の時代より四夷(東夷、北狄、西夷、南蛮)と呼ばれる周辺遊牧民国家とされる。殷の祖・五帝の舜は東夷の人、周の文公は西夷人であり、中国に農業がなかった時代に黄河の氾濫を利用した灌漑や船の技術を持っていた周辺遊牧民から農業を学んでおり、彼らがナイル川やチグリス・ユーフラテス川付近からの遊牧民である可能性が高いと言える。

 

古代中国の殷周秦王朝は、古代オリエント地方からの渡来人の建国した国家であるということだ。すると古代日本を建国した天皇家や賀茂一族らは、古代オリエントから中国へ渡来した移民である可能性が浮上する。



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