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この鷲の絵は孫のりうが9歳の時に描いたものです。
私は昭和15年生まれです。16年、海軍山本艦隊はハワイの真珠湾を一方的に攻撃して日米開戦。
やがて哀しい原爆2個投下で終わりを告げる。終戦の翌年、吉井小学校1年生として入学,学校の講堂正面に天皇・皇后の写真が飾られてなくても何の違和感も抱かなかった。戦後一回生にはそうした開戦の経緯や原爆のことなど一切知らずに学校生活を始めた。
福岡県の一番南の端、大分県境の町(吉井町)で生まれて育った私には戦争は毎日のように鳴るサイレン、防空壕、25キロぐらい離れた久留米市が空襲で燃え上がり、夜に久留米市の空が赤々と染め上がる様子を見たことぐらい。父親が昭和19年中国北部(北支)に出征し、21年春には帰国した。父は戦争については何も語ることはなかったが、一度だけふくらはぎに残る傷跡を見せ「これは八路軍と戦った時にやられたもの」と語った。父は「八路軍は大変勇敢で、怖い相手だった。これぐらいで済んで良かったよ」と漏らしていた。父から聞いた戦争話はそれぐらいだった。
父も復員し私には普通の戦後の生活が始まった。
小学校の友人の中には親を戦死で失くした者もいたが、我々の前には戦後の民主教育の学校生活が開けていた。こんな言葉を覚えている。
「話し合いの時は必ず手を挙げて意見を言うこと、何かを決める時は必ず多数決で決めること」
2、3年と私のクラスは「伊藤先生」と言う名の女教師だった。まだ二十歳過ぎくらいの若くて綺麗なお姉さんのような先生。時々我々生徒何人かで未納山の麓にある先生の家に泊まりに行った。あれは本当に楽しい小学校時代の記憶だな。
小学校生活の最終学年、6年の1学期末に起きた事件、今でも記憶に残る一つの言葉がある。
「菅生事件」
我が吉井町とはそう遠く離れた場所ではない大分県竹田市で起きた事件なので新聞で見たのだろう。
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