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藤井誠二公式メールマガジン 『The Interviews High (インタビューズハイ)』

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2014年からメルマガのタイトルを『事件の放物線』から『The Interviews High(インタビューズハイ)』に変更したいと思います。

私と同業であるノンフィクションの書き手を中心に、さまざまな分野・領域で私が「これぞ」と感じた実践をしていたり、生き方を選んでいる人々へのインタビューを配信していきたいと思っています。古い・新しい、若い・年配といった区別はもちろんありません。私がインタビューをすることにより、まず私自身が深く気付くこと=「ハイ」になること、を条件にしたいと思っています。それを読んでいただき、同じように感じていただけたら幸いです。

また、「事件の放物線」でお届けしてきたような、「事件」の「その後」を見聞きして、渦中の人間の声をひろい、社会に対して問われているものは何かをさがしていくという記事もときおり配信をしていきたいと思っています。発生間もない事件から、発生から十年単位の時間が経過してしまった事件まで、幅広く、できるだけ丹念に、藤井の視点と手法で事実をひろいあげていくレポートも微力ながら続けていきたいと思っています。


※絶版となった拙著をPDF書籍として販売しています。

●暴力の学校倒錯の街―福岡・近畿大附属女子高校殺人事件
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●17歳の殺人者
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発行者:藤井誠二(ノンフィクションライター) 価格:540円/月(税込)

 
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━──━
         藤井誠二公式メルマガ『事件の放物線』

              2010年07月01日号

Vol.0000 サンプル号 時効成立後に「名乗り出た」犯人よ(第一回)
─────────────────────────────────────

■不明になった姉■

1978年8月14日。

この日を境に石川憲さん(以下、石川さん)の姉、石川千佳子さん(当時29歳)
は忽然と姿を消した。

千佳子さんは東京・足立区立中川小学校で図工を担当する教師として働いており、
この日は夏休みの日直で出勤していた。

千佳子さんは石川さんの2歳上で、弟・雅敏さんがいる。1972年まで、父・辰男さ
ん、母・ツエさんの5人家族で生活をしていた。石川さんにとっては、時に母親代
わりをしてくれた、やさしく、まじめで努力家で、怒った顔を見たことがない穏
やかな姉と、突然のは結びつかないものだった。

「何かの事件に巻き込まれたに違いない」

そうした思いで千佳子さんの行方を捜すようになってからというもの、石川さん
はテレビのニュースで身元不明の遺体が発見されたと報道されると、食い入るよ
うに見てきた。むろん何より無事で生きていてほしいと願っていた。だが、同時
になく「遺体は姉じゃないか?」という疑念が浮かび、それを確信に置き換えた
い気持ちが心の片隅に芽生えたことも事実だった。何としても姉の安否を知りた
いという一心だった。

遺体は千佳子さんではないということがわかると「安心なのかそうでないのか」
自分でもわからない思いが募った。ひとつの疑いが晴れるごとに、いっそう千佳
子さん失踪の手がかりは遠のく。この言葉に言い表せない不安を、どこに持って
いけばいいのか。誰に言えばいいのか。

のちの民事裁判で石川さんはこう証言している。

「もし死んでいれば早く発見してほしかった。いつか見つかるんじゃないかとい
うことを、待ちわびていました」

胸が張り裂けんばかりの、26年間にわたって胸の底に溜まった思いの希望をとう
に捨ててになったわけではない。姉の千佳子さんがどういう目にい、現在どうなっ
ているのかが何もわからない。だから結果が何であれ真相を知りたい。真実を何
ら知り得ないことが一番え難かった。


■時効成立後に名乗り出た犯人■

早朝、7時。千葉県内の農村。静かな田園がひろがっている。朝もやがうっすらと
立ち込めている。

老人が金属製のステッキを持ち、犬を散歩させている。小柄だががっちりとした
背中。

首には双眼鏡をかけ、時折それを目にあて周囲を注意深く見回している。しきり
に何かを警戒している様子だ。

小一時間ほどの散歩をすませると、老人は自宅に戻った。

門や塀の上部には有刺鉄線が張り巡らされている。監視カメラが数ヵ所、出入り
口などを見張っている。

車庫のシャッターは固く閉じられ、まるでのようだ。

寄せつけまいとするの意思の表れだろうか。

家の主は(仮名・以下、中田)。ここへ越してくるまで暮らしていた東京都足立
区の自宅も、家の周囲を1.8メートルのブロック塀で囲み、その上に60センチあま
りの高さに有刺鉄線を張り巡らせた、物々しいものだった。鉄製のは2メートル強
の高さ。さらに何重もの鍵や赤外線カメラにサーチライトを備えつけていた。防
犯にしては物々しすぎる、と近所でも有名な家だった。

石川さんの長年にわたる謎が明らかになったのは、2004年8月21日のことだった。
その日、警視庁署に男が出頭し、自ら犯した殺人のについて自供したのである。

それが中田だった。

中田は警備員として、千佳子さんと同じ中川小学校に勤務していた人物である。
中田が一方的に言うところによれば、「廊下を歩いていたら、出会い頭に石川さ
んとぶつかり、口論となった。石川さんに騒がれたので、口をふさいで殺した」
というのである。

中田は千佳子さんを学校内で殺害後、自宅の床下に穴を掘るとそこに埋め、26年
もの間、千佳子さんを踏み付ける格好で生活を送っていたのだ。

事件を自ら明るみに出したのは、良心のに堪えかねてといったなものではなかっ
た。中田の自宅が足立区の区画整理事業の対象となり、長年にわたり用地の買収
をなにんできたものの、周囲の住居の退去が進み、立ちきを余儀なくされ、自宅
が解体されれば遺体が発見されてしまうという状況に追い込まれてやむをえず出
頭したのだ。

中田が千佳子さんを殺害した当時の殺人罪の時効は15年。とうにその期間は過ぎ
ていた。中田はもちろん、そのことを認識していた。

自分はもう罪に問われることはない、と。

綾瀬署から北海道市に住む石川さんのもとに電話がかかってきたのは、それから
数日後のことだった。小樽市は千佳子さんの生まれ育った故郷である。

連絡を受けた石川さんには、にわかに信じられないという思いはなかった。「やっ
ぱりそっちのほうだったか」と、どこかに落ちるところがあった。

「そっちのほう」と思ったのは、石川さんは北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)
によってされた可能性のある行方不明者を調査する「特定失踪者問題調査会」に
届け出て、千佳子さんの名前と写真をポスターで公開していたのだ。いまも石川
さんの自宅に貼ってある「特定失踪者」の顔写真がびっしりと並ぶポスターには
「失踪」直前の千佳子さんが、いる。

千佳子さんの失踪を北朝鮮と結び付けるのは、ある理由があった。彼女は1978年7
月末から同年8月12日、つまり殺害された2日前まで、東京都教職員生協主催の研
修旅行で東西ヨーロッパを訪問していた。いまのように海外旅行が気軽にできず、
しかも東西ヨーロッパが激しくしていた冷戦時に東ヨーロッパへくのは珍しいこ
とだった。

また失踪して10年ほど経った1987年、大韓航空機爆破事件が起きたことも大きかっ
たといえる。実行犯のを工作員として育てるうえで、日本人教師「」ことさんの
存在が報道で大きく取り上げられた。

「もしかしたら姉かも知れない」

千佳子さんとの年格好の近さが、石川さんに濃く印象づけられた。

失踪後のアパートには、パスポートは残されたまま。泥棒が入った形跡もなかっ
た。彼女の住んでいた足立区は東京では在日コリアンの集住地域の一つ。東ヨー
ロッパ旅行中に北朝鮮のエージェントに目を付けられ、日本で拉致されたのかも
しれない……。そういう憶測が、大韓航空機爆破事件以後、石川さんの中で次第
に輪郭を帯びはじめたのも無理はなかった。

まして、2002年、その存在が疑われていた拉致被害者がと日本に帰国したのだか
ら、ますます「日本にはいなくても生きている」という一縷の望みが石川さんの
中で膨らみ、やはり北朝鮮による拉致と千佳子さんの失踪は関係があるのではな
いかという思いが強まっていった。

「姉がいない。行方不明をなんとか探そうという気持ちが、何年、何十年経とう
とあるんですよ。『被害者の家族であってもそういう思いは薄れる』と言います
よね。違う!何年経とうと、何があっても見つけようって思うんです。確かに
『必死に捜したのか?』って、誰かに聞かれれば、『そこまではしてません』と
答えるしかありませんが……」

千佳子さんの写真を前に、こう石川さんは語気を強めた。

家族を案じながら、めいめいが懸命に生活をしていかねばならない苦しさ。その
中でできる範囲のことをするしかなかった。そのひとつが「特定失踪者問題調査
会」への届け出だった。

仕事のいっさいを放り出して姉を捜したくとも、石川さんの生活基盤は北海道に
あり、それはできない。東京に出かけわずかな手がかりをもとに、地をいつくばっ
て捜索することこそ、必死な気持ちの表れだなどと誰が言えよう。


また石川さんの父・辰男さんも遠く離れた北海道から東京へ赴き、できることを
可能な限り行っている。

事件後の8月24日には、実家から北海道・赤歌警察署に捜索願が出されたが、東京
へは石川さんの叔父についで辰男さんが向かっている。

東京の地理に不案内ではあったが、千賀子さんのアパート内を詳しく調べ、綾瀬
警察署へ出向き事情を把握した。次に警視庁鑑識課へ出向き、教えてもらえるこ
とはすべて尋ねた。その翌朝にはアパート付近の廃車や草むらなど、くまなく探
しまわった。

北海道に戻ってからの辰男さんは家族にこう報告をした。

「アパートに泥棒の入った様子はなく、そのままの状態だった。東京では年間
3000から4000人は家出があるようで、本当に事件性がなければ、警察はやっぱり
動けないと言う。そう言われては仕方ない」

事件につながるような特別な痕跡もなかった。家族が激しく落胆したことはいう
までもないが、妻や息子たちのうかがい知れないところで、辰男さんは心労を募
らせていた。


■次々と倒れる父と母■

千佳子さんが行方不明になってから数日後、勤務する小学校の校長が実家に電話
をかけてきた。石川さんが受話器をとった。

「日直なのに出勤されていません。お盆なのでそちらに帰郷していませんか」

石川さんはこう返した。

「こちらには戻ってきていません。もし、いないのであれば、姉は自ら家出する
ような性格でもないし、何かの事件に巻き込まれた可能性があります。申し訳あ
りませんが、すぐに東京へ行けないので警察に届けてください」

そう依頼したものの、校長はこう言った。

「お姉さんが戻ったときに困るから、事は荒立てないほうがいいですよ」

そして失踪から2カ月ほど経った10月25日、父・辰男さんは千佳子さんの住んで
いたアパートの荷物を引き取りに再び上京している。

アパートでは、校長やほかの同僚も立ち会った。その際、辰男さんは「大いに公
開して探してほしい」と、学校も積極的に取り組んでくれるよう頼んだ。父親と
して当たり前の懇願である。

ところが、校長はまたしてもこう言ったのだ。

「千佳子さんにとって、それはよくない。女の人だからおおっぴらにしないほう
がいい」

辰男さんはそれを聞くと涙を流して、「いや、おおっぴらにしても探したい」と
訴えたという。

校長の発言からうかがえるのは、千佳子さんが駆け落ちか何かスキャンダラスな
ことで姿をくらませたと勝手に思い込んでいたことだ。校長にとって千賀子さん
の失踪は、「学校にとっての不祥事」だったということになる。

「おおっぴらにしないほうがいい」というのは、教員の失踪という事実を軽く取
り扱う、あまりに不穏当な発言である。体面しか念頭にない姿勢に、教育者とし
ての資質を疑ってしまう。

辰男さんの涙は、体面を重んじることで娘を侮辱していることに気付かない、校
長の憤りからではなかったろうかと私は思う。

千佳子さんを殺害した中田は同校の警備員であり、いうまでもなく直接的な監査
責任は校長にある。事件の真相は当時わからなかったにしても、学校経営者とし
て行政上あるいは法的な見地から、教員の危機状況に対する認識や判断の不誠実
さ、そして中田に対する管理責任をも問われるのは当然だろう。

石川さんは真相発覚後、足立区の責任を問う裁判を起こすことになる。


千賀子さんが失踪してから4年後、辰男さんは胃ガンで亡くなった。主治医による
と辰男さんの胃ガンの元になった潰瘍は、千佳子さん失踪直後にできたものだと
いう。

石川さんはこう言う。

「ストレスが原因です。だから、結局、中田はうちの姉だけでなく、父親も殺し
たようなものなんですよ。ただひとり、殺しただけではなくて、そのまわりの人
間も苦しめているということです」

また母・ツエさんの精神的疲労も大きかった。千佳子さんがいなくなって1ヵ月後
には、これまでは黒々としていた髪の毛が真っ白になった。

やがて眠れない状況が続き、鬱状態となると通院を始めるようになる。

そして2002年、脳梗塞で倒れてしまう。いまでは会話のできない状態が続いてい
る。長年のストレスがツエさんを追いつめたのだろう。

自宅にはツエさんが彫った仏像がある。「姉が早く発見されるようにというより、
会えるようにと願って彫ったと思います」と石川さんは私に話した。

ツエさんが倒れてからしばらく経ち、仏壇に名刺が入っているのを石川さんたち
は見つけた。その名刺の裏には「千佳子 一日早く帰ってきなさい 皆んなが待っ
ています」と書かれていた。
「一日も早く」ではなく「一日早く」という書き付けに、ツエさんは娘への気遣
い、狂わんばかりに無事を願う思いが表れている。

「もし魂があれば書かれた住所のどこでもいいから、迷いなく戻ってきてほしい
という願いです」

そう石川さんは思う。魂だけでもどこにいるか知らせてほしい。そんな祈るよう
な思いを支えにツエさんは、夫の死後も生きてきたにちがいない。

そんな痛切な思いを胸に次々と倒れた両親を、石川さんと弟・雅敏さんは見てき
た。誰を恨めばいいのか。誰が自分たちをこんな目に遭わせたのか。そんな歯ぎ
しりするような思いを抱いて生きてきた。

しかし出頭した中田が事項によって検察に訴追されず、何の罰も受けずに暮らせ
ていることを、石川さんたちは到底理解できるはずがなかった。とりわけ事件発
覚後の中田の「時効が完成していることは、もちろん認識していた」といった陳
述書などで明らかにした本音や、詳しい事件の内容を知るほどに、石川さんの怒
りは募った。

2005年5月、東京地裁で石川さんと弟の雅敏さんが、中田並び足立区に対して約1
億8000万円の支払いを求めた損害訴訟を起こしたことで、この事件が一気にマス
コミに取り上げられることになる。

マスコミ各社は散歩中の中田や、彼の自宅を直撃したが、中田は悪びれる様子は
微塵もなく、石川千佳子さんや遺族に対して謝罪の言葉もなかった。

むしろ、散歩中に手放さないステッキを振り上げ、接近してくる記者に「攻撃す
るぞ」と威嚇をしたり、自宅車庫にクルマを入れようとしている中田にマイクを
向ける記者に対して、「殺されたいのか」とすごむなど、居直りを超えた異常な
態度をとった。


■妄想癖のある小学校警備員■

石川千佳子さんは1949年7月、小樽市に生まれた。北海道教育大学卒業後1972年よ
り東京都足立区立中川小学校で図工科専科教諭として勤務していた。

かつての姉の姿を石川さんはこう思い返す。

「弟の入学式に母親代わりに出席してくれたり、また塾も通わず自分で勉強し、
高校から家に直接帰らず、図書館によって勉強してそれから帰ってきた。本当に
やさしい人で、怒ったことがないんじゃないか」

やがて教師になり、家族と遠く離れて暮らすようになってからも、そんな性格は
変わらなかったようだ。

千佳子さんの同僚で1971年から中川小学校に勤務していた楠本公子さんは、千佳
子さんについてこう証言した。

「本当にいい人でした。真面目でしたし、純粋でしたし、純朴でしたし、真っ正
直な人でした。人を疑ったりするようなことが決してない人でした。控えめな人
でした」

楠本さんの記憶からも、人から恨まれることなど到底想像できない千佳子さんの
人となりがうかがえる。

一方、中田は1936年に小樽市で生まれた。奇しくも千佳子さんと同郷であるが、
当然ながら、2人に面識はない。水産加工業や自衛隊員、刑務官やタクシー運転手
などの職業を経て70年6月、足立区の給食調理師だった女性と結婚。そのあと、妻
の提案により足立区の職員採用試験を受け、合格。1973年4月、学校警備主事とし
て中川小学校に勤務することになった。

中田は同僚であるはずの教師たちとコミュニケーションをほとんどとっていない。
それはシャイであるとか、口下手によるものではなかったようだ。

楠本さんは当時を振り返り、法廷でこう述べた。

「とにかく窓の開け閉めというか、閉めておかないということに対してはすごく
うるさかった人でした。それだけではなく夕方、まだ明るいうちに、4時くらいな
んですけれども、教室で仕事をしておりますと、当時はまだエアコンがなかった
ものですから、窓を開けた状態で私どもは仕事をしておりますけれども、当方の
都合にお構いなく、彼は片っぱしから窓を閉めていくような、そういうところの
ある人でした」

この証言からわかるのは、中川小学校における中田の勤務態度は、彼だけにしか
通じない独特の規律や価値観に従ったもので、学校という一定の価値観を共有し
なければ物理的に成り立ち得ない公共空間には、まったくそぐわないものだった
ということだ。

続けて楠本さんは中田の巡回の様子について、こう話した。

「いつも怖い顔をして回っていました。ちょっと取りつく島のないような巡回の
仕方でした。そして、なぜかわからないんですけれど、こん棒のようなものを持っ
たり、時にはペットの猿を懐に抱えたりして回っているというような姿をよく見
かけました」

外からの闖入者に対する警備が仕事のはずなのだが、なぜか構内の人間に敵意を
表している印象を与えていたようだ。

中田の仕事熱心を逸したいような行動は目立った。放課後に課外活動をしている
生徒のランドセルを校庭に放り出す。体育館の中に人がいるにもかかわらず外か
ら鍵をかけてしまい、館内にいる人が出られなくようになることもあった。そん
な他人の事情を一切顧みない奇矯な振る舞いは、特に若い教員たちに「気味が悪
い」「怖い人」という印象を抱かせるには十分だった。


こうした行動にたまりかねて講義する教員もいたが、後に紹介する中田の供述に
よれば、抗議はすなわち自分に対する否定としか受け取ることができなかったよ
うだ。

2年間、千佳子さんと職場をともにした野谷八重子さんの証言からもそれはうかが
える。

ある日、野谷さんは、校長室での男性教員と中田の激しい言い合いを目の当たり
にした。野谷さんによると中田は男性教員を「口汚しくののしったりして」おり、
野谷さんは「最終的には腕を取って」中田をなだめた。こういうトラブルは、千
佳子さんが失踪するまでの2年間に2~3回起きていたという。

野谷さんは中川小学校に異動してきた際、他の教員から中田について「気をつけ
なさい」と注意を受けていたが、事実、特に若い教員たちは、中田の警備する日
は、「うちで仕事をすると言って、書類を持ってうちへ早く帰りました」と話す。

中田の気に入らないことをすれば、危害を加えられるかもしれない。そんな不穏
さを教員たちは感じていた。


ところが中田からすると教員に敵意を抱くのは当然という思いがあったようだ。

中田は教職員組合への寄付を教員から求められたが、それを断ってからというも
の「校長先生、教頭先生をのぞいてほぼ全員、私を無視するようになりました」
「私のほうから挨拶しても聞こえないふりをする(略)男性教師の中には横目で
私を睨むようにして見て、無言で行くものもおりました」と主義主張の違いを発
端に、仕事の上での嫌がらせが行われるようになったと陳述書で強調している。

たとえば、教員が換気のために窓を開けていたにすぎない行為も、職員が下校し、
警備員の中田に業務が引き継がれる4時以降に窓が開いていれば、それは「嫌がら
せ」であった。

中田の一方的な被害者意識はさらに募った。「学校内で履くサンダルが汚された
り、接着剤のようなものがつけてあったり」、あまつさえ「弁当に薬が入れられ
た」と憤る。弁当を食べ終わって5分も経たないうちに目がぐるぐる回って気持ち
が悪くなり、倒れ、吐き出した。これも「誰かが勝手に職員室の鍵を使って弁当
に何かを入れた」というのだ。

さらには教員の下校後、学校を巡回しているうち音楽準備室に入ったところ、咳
がたくさん出るようになった。その後、医師に「気管が爛れている」と診断され
ると、中田は「毒ガスが散布してあった」と思い込み、毒ガスかどうかを調べる
ため、なんとカナリアを伴って通勤したのである。ところが、すでに「有毒ガス
の気配はまったくなくなっていた」それは「教職員組合に関わる教員が強力な農
薬を入手し、自分を狙って行ったものだ」と、信じがたいこれらのことを陳述書
で主張している。

中川小学校の教員たちは確かに中田に「気味が悪く、取り付く島のない」という
印象を抱いていた。その一方で中田は妄想を逞しくし、心中にすべての教員への
憎悪や敵意を募らせていたのである。


■死人に口なし■

目撃者はおらず、殺害に至る経緯は不明だ。

1978年8月14日午後4時半ごろ、中田は中川小学校の給食室前廊下で千佳子さんの
首を絞めて殺害した。

中田の供述によれば、殺害の顛末は以下のようになる。


【主事室を出て前の事務室・放送室の点検・戸締まりをし、次の空き教室を見て
から廊下を左へ曲がろうとした時に突然左角から体を壁に隠して顔だけ出してき
たものがおり、ぶつかりそうになって飛び退き、「誰だ」と言いながら見ると、
石川先生だという事がわかったので、「こんなところに隠れるように何をしてい
るのだ」と強い口調で近寄ると、何か意味のわからないことを言いながら、両手
で胸の前に持っていたバッグのようなもので、いきなり私の顔を殴ってきたので、
「何をするんだ」と言いながら両手で払うと、特に強く押したわけではないのに、
もろにひっくり返り「キャー助けてー」とものすごい大声をあげたのです。

私は動転し、しまった、手を出してしまった、どうしようという気持ちと、こう
いう状況を作るのが目的で罠をかけてきたのではないかと言う強い疑念が生じま
した。慌ててそばへ寄って助け起こそうと手を出した時に右手を噛まれ、さらに
大きな声で悲鳴をあげられて、ああ、これで私は首になる、もう終わりだ、罠に
はめられて俺だけ処分されてたまるかと言う強い怒りが生じ夢中で首をおさえた
のです。

しばらくして、はっと気付いた時には、先生は動かなくなっていました。私は、
そうだ、仲間が居るはずだと思い、走って2階の職員室、校長室を見たが誰も居ら
ず、更に校舎中を見て回ったが誰も居らず、結果的に石川先生一人だった事がわ
かりました】


中田に対する東京地裁での損害賠償請求の判決では、こうした中田の陳述を「必
ずしも首肯し難いものである」とにべもなく退け、「殺害の経緯及び動機を認定
すべき的確な証拠はない」と判じている。

むろん、中田は逮捕すらされていないのだから精神鑑定を受けていない。しかし
この供述や前述の陳述からは、起きた事実に対する中田の歪んだ認知しか読み取
れない。

ただ、中田の言い分をそのまま鵜呑みにするならば、千佳子さんが「何か意味の
わからないことを言いながら」「バッグの様なもの」で攻撃を加えてきたために
反撃をしたという事になる。繰り返すが、目撃者もいなければ、殺された千佳子
さんが反証をあの世から伝えてくれるはずもない。あたかも正当防衛の末に誤っ
て殺してしまったかのような言い分を当然、殺された側は信じることはできない。

石川さんは千佳子さんの性格上、中田に対しいきなり殴りかかることなどありえ
ないと強調する。「もしバッグで殴りかかったということであれば、押し倒され
て、その時に振り回してたまたまバッグが当たったぐらい」と考えている。

中田は千佳子さんを殺害後、毛布でくるんだうえ、ロープで縛り、車のトランク
に遺体を隠し、勤務明けの15日に自宅に運び入れた。

妻の留守中をみはからい和室の畳をはがし、床下に遺体を隠すとそのまま普段ど
おり出勤した。よく16日に帰宅すると死臭がしていたため、床下を約1メートル掘っ
て埋め、その上に急遽、掘りごたつをこしらえた。

中田は千佳子さん殺害後も平常通り、勤務を続けていた。殺害に対する反省は微
塵もなく、むしろ正当化・合理化に傾くものだった。

中田の供述によると、「石川先生がなぜ帰りがけにおかしな行動を取ったのか」
と千佳子さんを逆に非難し、「自首しようという気持ちは起きませんでした」と
思うも、やはり殺人を犯したという精神的な重圧から、「いろいろやってくれた
教師たちをやっつけて、私も死んですべてを終わりにしようと考え」「大型シー
ナイフを取り出した」ところ「私の3メートルくらい前にある障子の前に、石川先
生の姿がはっきりと見えたのです。先生の霊は「ごめん」と一言云って頭を下げ
ると、すーっと消えてしまいました(略)ぶつかったあの時、やぱり何かあった
んだ、俺は自分の勘違いだけで、何もしていない先生に手をかけたのではないん
だな、と思いました」と徹頭徹尾、自分を正当化しようと務めたのである。

それでも動揺することはあったようだ。

しかし、その動揺への向き合い方も、やはり中田独自のもので、自己催眠に関す
る本を買うと、日夜、自己暗示に精を出した。

【お前は何もしていない。何も恐れる事はない。誰に会っても平気だ。何もして
いないのだから平気だと云うような事を目を閉じて精神統一しながら自分に心の
中で云いました(略)事件の事を思い出さなくなり、さらに歳月が経つにしたがっ
て、思い出さなくなって行ったのです】(陳述書より)

表向きは、葛藤も焦慮も感じなくなったのか。中田は遺体を家の内の掘りごたつ
の床下1メートルに埋めたまま、26年もの時を過ごすことになる。


石川さんは中田が千佳子さんを埋めた、検証の行われた現場を見た際の光景をこ
う述べた。

「遺体を大の字ではなく、ごろっとした(丸まった)状態で埋めていたはずで、1
メートル程度の深さであれば土といっても、なんぼも被ってないはずです」

己を自己暗示にかけたことが成功したのか否かわからないが、殺害した千佳子さ
んを物理的にも精神的にも隠蔽し、ともあれ中田本人は「思い出さなくなった」
と言い張っても、むしろ他人を家へ寄せ付けまいと自宅を要塞化していったこと
に不安が表れている。取り壊されていまは跡形もない中田の自宅、そして同様に
要塞化した千葉の自宅も、まさに殺人を犯した自分自身の権化だったといえよう。

                             (第二回へ続く)


『殺された側の論理・犯罪被害者遺族がのぞむ「罰」と「権利」』(講談社)
                                より引用
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著者:ノンフィクションライター 藤井誠二
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